音楽を想う。考える。

キッチンで料理をしながらASKAさんの歌を聴いていたら、夫が突然、
「あれ、ルネサンス?」
と言った。

意味が全然分からなくて「はい?」って聞き返したら、
「文芸復興」

だって。
そうだよ良く気付いたね。だって大分聴いてなかったものね。

でも色々あったんだよ私の中ではね。

 

 

 

去年の秋頃から、私の生活をとりまく音楽の深度が急速に増していった。

そしてそれは、音楽ストリーミングサービスのSpotifyを利用し始めたことが明確なきっかけとなった。

始める前は、利用することに若干の戸惑いがあったことを覚えている。フリープランではシャッフル再生という制限がつくけれど、音楽が無料で聴き放題となる。

無料でなんでも聴けてしまったら、そのありがたみは半減してしまうのではないか。音楽に敬意を払わなくなってしまうのではないか。そんなことを考えていた。

 

なによりASKAさんは以前より、「音楽が手軽なものになって、音楽としてのポジションを失ってしまった」と、音楽が聴き放題になることに懸念を示す発言をしていた。

私にとって長い間、特別な響きをもって音楽を届けてくれていたASKAさんが発するその言葉は思いのほか重くのしかかった。

 

でも本当にそうなのか。自分で確かめてみなければ分からない。
だからやっぱり利用してみることにした。

 

その結果は予想に反して、私が抱いた戸惑いを払拭し、価値ある音楽体験を与えてくれた。


聴き始めた頃にまず感激したのは、ハワイで過ごした中高時代、ラジオで毎日聴いたポップソングス達との邂逅だ。

好きだったシンガーの曲はもちろん、誰の何の曲だったかも知らないけれど確実に身体に刻まれていた数々の曲たちに再会できたのは、Spotifyの魅力的なプレイリストのおかげ。

そして今まで関心があったけれど購入には至らなかった人達の曲を聴いたり、ジャンルやユーザーの嗜好に基づいたプレイリストからお気に入りの曲を発見するのもエキサイティングな体験だ。

クラシックにジャズ、ポップスとあらゆるジャンルの音楽を様々な切り口で体験し、新たなアーティストや曲との出会いに魅惑される日々が続いている。

 

そんな中で気付いたのは、ストリーミングによって音楽の価値が下がるどころか、私にとってそれは一層増して大切でなくてはならないものになり、音楽、そしてそれらを生み出すアーティスト達への敬意が高まっていったということ。

手軽になったのは音楽の聴き方であって、音楽そのものではないのではないか。

音楽の価値はどんな聴き方であっても不変であると、私にはそう思えた。

 

とはいえアーティストの立場に立てば、また違った捉え方があるのもまた確かなのだろう。心血注いで創作したものが、結果的にユーザーにとって無料で提供されるのは容認できるものではないという考えがあっても、それはとても理解出来る気がする。

 

ある時期、CDは何故どれも同じような値段で販売されているのだろうと疑問に思ったことがあった。

そこに注がれた資源なりコストはそれぞれに違うはずだし、出来上がったもののクオリティや価値は一律に同じではないのではないか。一流のフレンチレストランとカジュアルなブラッスリーでの食事代は違って当然だ。

これには、CD販売が複製を販売し、権利で利益を得るという構造であることが背景にあるのかもしれない。

そうだとしても、本当の価格は同じではないだろうという思いがあった。

だからASKAさんのアルバムToo Many Peopleに3,780円という価格がつけられたことを知った時、私はとても嬉しく思った。だってASKAさんの音楽はそれだけの(あるいはそれ以上の)価値を生み出していると思うし、販売したい価格で世に出すというのは大切なことだと思ったから。

 

そういう想いを持ってこのCDを購入して、大切に聴いて来たのだけど、いざストリーミングが私の前に現れたら、その考えが揺らいできた。

コンテンツの中身が何であるにせよ、その形態がデジタルなデータである以上、クラウド化されて流通していくのはごく自然な流れなのではないかと思えた。企業の基幹システムも、メールも写真も映画もそのように発展してきた。

音楽もその延長線上にあるもので、ストリーミングという形で提供されていくのは妥当な変化であると感じられた。

 

Spotifyのフリー会員は無料だけれど、すべての再生に対してアーティストへの印税が支払われている。

世界に目を向ければ、ストリーミングの成長が音楽市場の回復に寄与しているのも事実だ。

Spotifyを利用していると、なにより音楽への情熱をひしひしと感じる。もっとユーザーに音楽を楽しんでもらいたい、知ってもらいたいという意気込みが伝わってくる。

だから私はたちまちSpotifyが大好きになったし、有料会員を選択した。Spotifyのおかげで日々素晴らしい音楽に出会えることにとても感謝している。

 

ストリーミングへのシフトという大きな変化の中で、個々のアーティストがストリーミングに参加するかどうか、どこまで参加するかというのはそれぞれの考えによるものだし、当然尊重されるべきものだろう。


その一方で、ストリーミングで音楽を聴くたびに、私はASKAさんとは違う温度感を持って、まったく異なる景色を見ながら音楽に接しているのかもしれないと思ったら、なんだかそれは悲しいことのような気がしてきた。


音楽を愛する気持ちにきっと変わりはない。ASKAさんがストリーミングに参加しないということも私にとって大きな問題ではない。ASKAさんがダウンロード配信サイトを立ち上げたことはとても素晴らしいことだと思うし、その理念に心から共感もする。


でもたくさんの音楽を聴いて好きになるほど、ストリーミングがもたらす音楽体験にのめり込んで行くほど、ASKAさんと私の間の、共有できるはずのものが少しずつ失われていっているような気がした。出来ることなら、同じ気持ちを持って音楽を楽しめたら良かったのに。

 

 

Black & Whiteを聴いてみた。

もうCDはやめて配信にしようか大分迷って、やっぱり特典の「黄昏を待たずに」が聴きたくて購入したCD。結局、こちらは今も開封していないのだけれど。

“あなたと僕は同じ音の人”とASKAさんが歌うBlack & Whiteを聴きながら、私は果たして同じ音の人なのだろうかと考えた。

そうであったら良いとずっと思っていたはずだけれど、違うのかもしれない。知っているようで、本当は知らないことばかりだ。

 

どうも気持ちが乗り切らないまま聴いてしまったけれど、何度か聴いているうちに、洋風な雰囲気を感じた。

そしてこのアルバムが、ASKAさんが言及していたポップス、共有というものを体現したものであるのだろうということをおぼろげに感じた気がした。

 

でもポップスってなんだろう。共有できるものとは一体どんなものだろう。どの辺を洋楽的と感じるんだろう。

分析的に聴き始めたけれど、だんだんつまらなくなった。音楽を楽しむというのはまず理屈抜きの良さを感じることなはず。乗らない気持ちを分析ですりかえても続かない。

Black & WhiteもASKAさんの音楽もやめて、聴きたい音楽をひたすら聴くことにした。

 

 

オリジナルラブってこんな良い曲歌ってたんだ、かっこいい。浜田省吾ってすごいいい声じゃないか!! 子供の頃遠くで鳴っていたけれど反応できなかった音楽を改めて聴いて、新鮮な想いで楽しむ。

最近の人だって面白い。娘がパパとラジオで聴いた打上花火という曲が良かったというから一緒に聴いてみた。DAOKO。6歳の子をも惹きつける力ってなんだろう。

平井大やシンリズムはSpotifyのプレイリストのおかげで知ることが出来た。黒木渚も好き。宮﨑薫ちゃんはアルバム2枚とも持っているけれど、せっかくならSpotifyで聴こう。だってとっても応援してる。

 

洋楽は、90年代のポップスやエド・シーランにアデルも聴くけれど、ある日の朝はまずポリスを聴いた。

ポリスのページに関連アーティストとして出ていたデュラン・デュランを聴き、さらにそこで表示されていたJoe Jacksonという名前が気になり聴いてみる。あれ、これってものすごくオリジナルラブだよね?としばし興味深く聴いた。その後はそろそろColdplayが聴きたい気分になって再生し、MUSEに行き、気付いたらイギリス続きなので、R.E.Mを聴くことにした。Losing My Religionという曲はどこかに行きそうなのにどこにも行かなくて、でもなんだか浮遊している感じがすごくいい。

そのうち女性シンガーを聴きたくなった。ダイアナ・クラールのWallflowerを聴こう。大好きなこのアルバムは、数少ない手放さなかったCDの一つだ。Desparado、本当に好き。ASKAさんも聴いたかなぁ。色々聴いて、最後はやっぱりジャズが聴きたくなってビリー・ホリデイエラ・フィッツジェラルドを聴いて今日はおしまい。

こんな風にあっという間に時間が経っていく。

 

音楽を聴きながら毎日、色々なことを考えた。

ポップスとは、その存在意義とは。どんなものが時を超えて残っていくのだろう。大衆的とは、普遍的とは。洋楽と邦楽の違い。メロディと言葉はどんな関係にあるのだろう。私達は何故音楽を必要として、これからの音楽はどうなっていくのか。テクノロジーは音楽にどのように貢献していくのか。

考えるほどに、音楽への感謝の気持ちが増していった。

 

気付けば私の音楽的日常にASKAさんが現れることはすっかりなくなっていた。ストリーミングが私に与えてくれる新しい音楽体験に没頭することで、もやもやとした気持ちが目立たなくなっていく気がした。

 

音楽が好きだ。

 

シンプルだけど、明確な想いがいつしか私の中に立ち上がっていた。

 

そしてある時、ふとASKAさんを聴いてみようかなと思う日がやってきた。今ならフラットに聴けるという気がした。

 

これまでと違った立ち位置で聴くASKAさんの音楽は、新たな佇まいを伴って私に響いた。たくさんのインプットを経て、純粋に音楽として向き合うことが出来たのかもしれない。

ASKAさんの歌や声や言葉や哲学のどんなところが好きでどこに共鳴するのか、今までよりもう少し分かった気がした。

そして結局のところ、私はASKAさんの音楽が好きであることに変わりはなくて、それだけで十分だったことに気が付いた。

 

 

一体私はいつどこでくぐり抜けたのだろう。


雨模様の中では、花がどこに咲いているかも見分けられないことがある。でもずっと足元に咲いてくれていたんだ。言葉よりもやさしいお花を、いつも一緒に育てて来たんだった。なんでうっかり見落としちゃうんだろう、私。

 

同じ音の人であっても、音楽から日常まですべての出来事に同じ和音を添えるかと言ったらそうではないだろう。

和音の一音の違いはその場では違和感のある響きとなるかもしれないけれど、全体を見渡せばそんなに大したことではないのかもしれない。

 

あるいは同じ和音の話をしているはずなのにどうも話がかみ合わなかったら、それはキーが違うのかもしれない。

キーが違えば同じ和音を奏でても響きも見える景色も違う。そうしたら一歩踏み出して転調してみることだってできる。そうか、こんな響きを持っていたのかと気付けるだろう。

 

どっちだっていいよね。

大切なのは、そこに共有できるものが存在するということ。

そうして私はやっぱりnot at allを聴いて、そうだよねって深く頷く。

ずっと聴いてきたことの重みを、しっかりとかみしめてみる。

ありがとう。

温かいポジティブな代償

思えば、私が言葉について考えを巡らせるようになったのは、ASKAさんのブログがきっかけだった。

ブログが始まった当初、ネット上にはASKAさんについてのたくさんの意見が溢れていて、それが自分に向けられたものではなくとも、胸をえぐられるような気持ちになる言葉が飛び交っていた。

 

言葉のナイフは一度放たれたらそれはもう落ちるところを知らなくて、受け止められる人もいないまま、どこまでも人の心を突き刺し続けているような気がした。

はたから見ている私でさえこのような気持ちになるのに、この言葉を自分に向けられるというのはどんなものなのか、とても想像出来なかった。私にはとても、耐えられそうにないと思った。

 

言葉は一度放ったら、もう自分だけのものではなくなり、取り消せるものでもない。だからどのような意見を表明し、それをどのような言葉で表現するか、よくよく考えなくてはならない。
とういうのがそこから得た私の教訓だった。

 

その上で私は、このブログに言葉に綴ることにした。自分が向かいたい景色に向かって、言葉を書きたいと思った。それは心地よい和音を探して奏でることにも似ている気がした。そして、自分がそこに何度でも戻って来たいと思える言葉を書きたかった。

 

ある時、村上春樹のエッセイを読んでいたらこんな言葉に出会った。

何かを非難すること、厳しく批評すること自体が間違っていると言っているわけではない。すべてのテキストはあらゆる批評に開かれているものだし、また開かれていなくてはならない。ただ僕がここで言いたいのは、何かに対するネガティブな方向の啓蒙は、場合によってはいろんな物事を、ときとして自分自身をも、取り返しがつかないくらい損なってしまうということだ。そこにはより大きく温かいポジティブな「代償」のようなものが用意されていなくてはならないはずだ。- 村上朝日堂はいかにして鍛えられたか

 

温かいポジティブな代償。
なんて素敵な言葉だろうって思った。

 

好きなものを好きだという時には、多少言葉足らずだったとしても、思いが行き違うことはそんなにない。でも否定のメッセージを伝える時には、細心の注意と大きな覚悟が必要だ。そしてそれは、そこに温かくポジティブな代償が用意出来る時にだけ、伝えるべきものなのだと思った。

この村上さんの言葉はその後、私の大切な指針となった。

 

そして今。
アルバムBlack & Whiteが私の中で、上手く響かない。一度や二度聴いて分かるものではないのは当然だろう。でも、聴くという物理的行為に至ることがそもそも難しい。

そしてその理由は、この作品そのものに起因するものだけではないということにも気付いている。心がひとつの色で塗られてしまっているから、なんだ。

ぐるぐるとめぐる袋小路のような思考をどうしたら良いのだろう?と考える日々が続いた。

言いっ放しの批判は簡単だ。あるいは何も語らず離れるということも出来る。あえて深く向き合うことを選ばなくたっていい。

 

では、本当に言葉にして発する必要があるというのはどんな時なんだろう。ポジティブな代償を差し出せるかというのは、もしかしたら副次的な要件のような気もする。

それは、言葉にすることが、批判そのものが目的でもなく、自分を損なうことに繋がることでもなく、自分を保つために必要な時、かもしれないと思った。言葉にしないことが、自分を損なうことになる時、と言い換えられるかもしれない。

そうだとしたら、やっぱり私は向き合わなくてはいけないのだろうな。

 

「手を振ってサヨナラした人にまた出会った時に、「やあ、久しぶり」って笑顔で手を握る関係を作っておきたい」

と語るASKAさんのインタビューを読んだら、ますますそう思った。私も、そうありたい。

音楽だけで抱き合えてたら、楽なのに。

だって久しぶりにnot at allを聴いたら涙がいっぱい出た。涙が出るというのは共鳴のひとつの形なんだ。

向こう側の景色を想像してみる。この歌が伝えてくれた大切なこと。

私は、どこかひとつを、くぐり抜けられるのだろうか。

音楽のゆくえを考える。CDと、配信と。

 

CDは今後、コレクターのものという位置付けになって行く。

これからの音楽の供給は、間違いなく配信になっていきます。 CDは、そのアーティストのものを手元に置いておきたいという、 言わば、グッズのようなものになります。もう、そうなっていますね。

10月の発表。 - aska_burnishstone’s diary

 

ASKAさんの最近のこのような発信を目にして、CDはこれからも残っていくのだろうかということを考えるようになった。

この間CDのほとんどを処分してからは、さらにそのことを考えるようになった。私にとってCDプレーヤーはいずれ不要になるものだろうと感じた。

 

CDを聴くにはCDプレーヤーが必要なわけだけど、今後もその需要はあるのだろうかと考えると、見込みはとても低いような気がする。今の若者が音楽を聴く手段は、スマホでYouTubeの音楽を聴くというのが主流らしい。CDプレーヤーがそもそも何であるか知らないという高校生の話も見かけるし、彼らが将来CDプレーヤーを購入する可能性は、限りなく低いだろう。

スマートフォンで音楽を聴く方法

そうするとCDは、今CDプレーヤーを持って聴いている人達がいる間は存続するだろうけど、市場が先細りしていくのは確実だろう。

とはいえ見渡すと、日本ではまだまだCDが売れ、盛んにリリースされている印象だし、レコードショップも少なくなったとは言え実感としてはまだ存在感がある。

 

そんな状況を前に、私は今後CDと配信(というとりあえず二択)だったらどちらを選ぶかということを考えることになる。

CDも配信で購入する音源も、突き詰めると複製可能なデジタルデータであるから、そこにどんな優れたコンテンツが入っているかに関わらず、そのコストは限りなく無料に近付いていく。

データを取得するという点で結果が同じであれば(厳密には音質が異なるけれど)、そしてそこだけを考えるのであれば、ユーザーにとってはより安くて便利な配信を選択するというのは妥当な選択肢だと思う。

 

でもその一方で、CDと配信ではアーティストにとっては事情が違ってくるという現実もある。配信ではさまざまな権利料や流通手数料で大半が引かれ、アーティストの手元に残るものが少ないという。

www.m-on-music.jp

 

だからCDを売るために、例えば特典や権利を付けるというのも分かる。数年前のスガシカオさんの「ダウンロードだとほとんど利益がない。CDを買ってもらえると制作費が補える」という発言も、とっても切実に響いた。ユーザーとして出来ることをしたい、という気持ちになった。

でもしばらく考えて、それでいいのかなって思った。アーティスト側の事情を鑑みて、本当は配信の方がいいのだけどあえてCDを買う、っていうのは、健全な経済ではない気がした。

ユーザーにとって最も合理的で最良の選択が、アーティストにとっても一番良い結果をもたらすのが、理想の姿だろうと思った。

 

そう考えると、今の状況には歪みがある。ユーザーにとっては配信の方に分があっても、アーティストにとってはCDの方が利益が出るのでこちらを買ってほしいという状況になっているとしたら、それはお互い不幸だと思った。今の時代にあった、アーティストにきちんと還元される新しい権利の概念やシステムを作っていくことが必要になってくるのだろう。

 

とそんなことを考えていたら、ASKAさんの配信サイトWeare設立のお知らせが。

aska-burnishstone.hatenablog.com


ASKAさんなら、そういう構想があるかもしれないと思っていたけれど、まさかこんなに早くに、本当にやってしまうなんて。ASKAさん、かっこいいよー。涙。

 

JUDY AND MARYギタリストのTAKUYAが2015年のインタビューで、音楽が売れてもアーティストに還元されない状況について、「多分もう全く新しい発想で、一から音楽やパフォーマンスを考えて、お金にしていって、管理する方法を誰かがやって大成功して巻き込んでくしかないと思うな。」と言っていたけれど、今まさにASKAさんがこの入口に立ってるんだよね、と思ったら感慨深い気持ちになった。

 

音楽を愛する人達が安心して活動できる環境があるというのはとても大切なことだと思う。誰かがやらなくてはと思っているその誰かがASKAさんであったのは、あの場所をくぐり抜けてきた今のASKAさんだったからこそだとも思う。

 

新しいことを始めると、向かい風も吹き、小石も飛んでくるかもしれない。大きなことを成し遂げるための、ちょっとした条件なんだろう。

確固たる理念を持って突き進むASKAさんが、音楽シーンに新たな風を巻き起こしていくのを、熱い眼差しで応援していきたいと思う。

 

 

 

さて、最近の私がもっぱら音楽を聴いているのはSpotifyで、今日も朝からずっも聴いている。これによって私と音楽との関わりがすっかり様変わりしたと言っても過言ではないと思う。

ASKAさんは、聴き放題が「世間の常識となっていくことに警鐘を鳴らしたいという気持ち」があると述べていた。

どうなんだろうな。ゆっくり考えよう。

自分のためにやりきる

 

「自分の仕事をつくる」という、「いい仕事」の現場を訪ねたインタビュー記録の本を読んでいる時、こんなエピソードに出会った。

それは、あるピアノ奏者に「音楽家にとって、もっとも重要な能力は何か?」という質問をしたところ、迷わず「聴く能力」であると答えたという話で、そのピアノ奏者は、

「もし「自分は十分にいい音が出せている」と感じたら、そこがその人の音楽の上限となる。だから、常に聴く能力を磨き続けることが必要である」

と話したという。

 

これを読んだ時、ASKAさんの過去のインタビューの言葉の数々を思い出し、数珠のように繋がってきた。「ずっと勝負にこだわっていく」という意識がなくなったときは曲に対して「完成だ」と思う道のりが早くなるということ(音楽専科 2002 Winter)。才能があるからこそ他者の才に気付くことができ、己の才能に磨きをかけられるということ(ぴあ&ASKA 2012)。時間=命を費やして深みに入るということは、色々な感覚を身に付けるということで、その感覚を身に付けた者同士しか分からないことがある。表面にはない、深いところにあるものに気付いていくことを、作り手として大切にしたいということ(Rolling Stone 2012.11)。

 

その結果というのはもしかしたら、聴き手が念入りに聴いても、気付くことがないのかもしれない。そこまでやらなくても良いと思う人もいるのかもしれない。だけれど幼き日のスティーブ・ジョブス父親に「良いものを作りたければ、たとえば見えないタンスの裏側まで美しく仕上げることだ」と言われ、その哲学を貫いたように、ASKAさんもまた、見えないところまで徹底的にこだわり、常に革新を続けていっているのだろうと思う。

 

そしてきっと、自分のためにやりきったという達成感が、作品に真の輝きを与える。それは見えないところで伝わり、聴き手にとっても代替のない喜びを生み出すことに繋がるのだろう。もしそこに妥協が1ミリでも存在したら、その曇りを聴き手はきっと、見逃さないだろうと思う。

自分の喜びのため、という究極の行動源泉が、受け取る人にとっても喜びをもたらすんだな。アダム・スミスの見えざる手みたい。Man and Womanも、そういうことかもしれない。やがて生まれてくる自分のために。

 

ASKAさんは、深さを追及する一方で、歌という形になった時にリスナーと共鳴しあえる絶妙なバランスを生み出していると思う。己の世界の深さと、普遍的なものの両立。このバランスはどうやって生み出されるのだろう。私にとって、ASKAさんの歌に惹かれる最大の理由かもしれない。

 

そんなことを考えていたら、夜が更けた。

Too Many PeopleのMVを観て、感無量になった。届いた時、パッケージに本当に「+いろいろ」って書いてあって思わず笑ってしまったけれど。お茶目なASKAさん。私の中にもいろいろな想いの断片が発生したけれど、私のCPUはとっても処理能力が遅くて非効率で、まだ上手く処理できなそう。想っていること、書きかけのこと、たくさんあってもそのうちそのままどこかにいってしまうこともしょっちゅうだな。そういえばファンレターだって、投函したのはたったの1通だったけれど、書きかけて完成しなかった手紙、何通かあったっけ。

 

でもそんな私が、ここに言葉を綴ることをほんの少しずつでも続けていられるのは、そこに自発的な喜びが存在するから。そしてそれは、ASKAさんが大股で歩く姿を日々見つめられるという喜びによって増大し続ける。

だから毎日、どうもありがとう。

これから音楽をどうやって聴こう

 

ふと思い立って、家の中のものをどんどん減らし、片付ける日々が続いている。新しい風の通り道が出来るようで、清々しい気分になる。

AVボードに並んだCDを眺めて、やっぱりこれらも処分することにした。以前より大分減っていたけれど、もうCDを持つのをやめようと思った。

一枚ずつiTunesに落として、お気に入りのCDは、聴き分けられるか分からないけど一応Appleロスレスで取り込んで…とやっているうちに、どんどん引き出しにスペースが出来て来た。

作業をしながら、「今時CDで音楽聴いてるなんて古いよって友達に言われて、Bluetoothスピーカーを買っちゃった」と言っていた友人の話や、「昔に比べて全然音楽を聴かなくなった」と言う別の友人の言葉を思い出していた。そしてもちろんASKAさんのブログでの発信も頭にあって、これから音楽の聴き方はどうなっていくんだろうな、なんてことをぼんやりと考えていた。


数日かけて大分CDがなくなった。
残ったのは、少しのクラシックとジャズのCDと、引き出し一段を占めるASKAさん関連のCDになった。ASKAさんの言う通り、コレクターのグッズだな。

一気に増えたiTunesの音楽を手早く聴けるように、PCをアンプに繋いで、スピーカーから聴けるようにした。とりあえずこれでいいか。

でもCDがほとんどなくなったのなら、場所を取る我が家の古いCDコンポももう不要かもしれないと思って来た。買い換えるとしたら?CDはまだあるけれど、CDプレーヤーを買うという選択肢はもうないだろう。パソコンにスピーカーを繋ぐのが現実的かしら。どんなものがあるのかしらと見てみる。なんだか色々あるけれど、DADAレーベルスピーカー、気になるー。

そんなことを考えているうちに、ふと、とっくに予約したBlack & Whiteは、配信ではなくCDで購入するので良かったかなと言う考えが頭をよぎった。私に取って歌詞カードは大切で、ASKAさんの言葉を文字として眺めたい。そのうえASKAさん、次のカーブが来たらキスをくれないか、ってどんな風に歌うんだろう、気になり過ぎる。

 

ASKAさんのこれまでのCDは、今のところ手放すという選択肢は見当たらない大切なコレクション。だけれど、これからもこのコレクションを続けていきたいかと言ったら、なんとなくそういう温度感ではないかもしれないなと思った。色んなものを、ミニマルにしていきたい。

配信で音楽を購入するというのが、作り手にとってもリスナーにとっても、win-winになものになっていくと良いなと思う。

ASKAさんは、あの角の向こうに何が見えているんだろう。

個人商店・DADAレーベルのこれからに、わくわく。
スピーカー、買えるといいなー。

MV撮影

 

8月の下旬、夫の実家を訪ねた。
先に帰省していた夫から話を聞いていた義母が真っ先に尋ねて来たのは、ASKAさんのMV撮影のことだった。義母の中でいつの間にか、私はあの事件以来ASKAさんのファンをやめたことになっていたらしく、私が撮影に申し込んでいたことにとても驚いていた。

義母は撮影の報道を割と熱心に見ていたようで、こう続けた。「みんなごめん、って一言言ってたけど、あれだけじゃ納得出来ないんじゃない」

そうか、なるほどそういう受け止め方はもしかしたらめずらしくはないのかもしれない。そう思いながら、こう伝えた。私には気持ちは十分伝わって来たこと。何をやっても悪く言う人もいれば応援する人もいる。私は応援している、ということ。
そうだね、と義母は言った。

撮影参加は叶わなかったけれど、あの日、ライブ配信ASKAさんの姿を観ていた私は、来るべき日がとうとうやって来たのだとただ嬉しくて、氷結片手にはしゃぎながら観てたんだった。

でも翌日のインタビューや報道を観て、この出来事はASKAさんが色々なことをくぐり抜け、その結果の今でありMV撮影であったのだと思うと、あれはただ楽しいだけの時間じゃなかったんだなと、胸にじわりじわりと来るものがあった。

去年の夏にブログを初めて以来、ネットメディアを利用して次々に新しいことを成し遂げて来たASKAさん。もしもあの事件がなかったら、これらの出来事は同じように起きていたのだろうか。ピンチをチャンスに変えるという言葉があるけれど、これはチャンスのためのピンチだったのでは、という気さえしてしまう。

でもそれは、ASKAさんの情熱と才能と底力があってこそ、成し得たのだろうと思う。続けることを続ける、という困難を乗り越えるASKAさんの強さに、敬意を払わずにいられない気持ちになる。

そしてMV撮影を観て何より思ったのは、想いが最も伝わるのはやはり、語られる言葉よりも歌であり、歌う姿だということ。言葉はとても大きな力を持っているからその重みというのはもちろんダイレクトに伝わる。けれども歌という形の表現になった時、その形だからこそ浮き上がってくるメッセージというのがあって、それは生の言葉より、ずっと心の深いところに響く。

そのメッセージを感じるには、心をそこに向け、響き合える場所にいる必要がある。

そんな場所にいられたことにありがとうって、心から思った。

こうして私がやっと書いている間にも、ASKAさんは今日の顔で明日を迎え、いまを越えていっているのだなと思うと、なんだか私にもエネルギーが湧いて来た。

もう一回、新曲聴こうっと。

光と影

 

なんだか久しぶりに、ASKAさんの歌を聴いた。何故だかしばらく、違う音楽と本の世界に入り込んでしまって、聴くことがなかった。そんなに長い間ではなかったかもしれないけれど。

Too many peopleと、SCENE IIIを取り出した。ASKAさんのその言葉の深さと奥行きはどこから生まれるのかな、なんて考えながらワイシャツにアイロンをかけていた。


光のあるところには、必ず影がある。
影があるから、光が存在する。

だからきっと、

喜びを真に感じるには
悲しみを知ることが必要で、

本当の優しさを知るには
痛みを経験することが必要で、

目に見えるものを理解するには
見えないものにまで想いを馳せる必要がある。

 

光を知るには、深い闇をくぐり抜けなくてはならない。

対極にあるようで、やっぱり割り切れないものなんだろうなと思う。


一つを描いていても、そこには両方の景色が詰まっていることが、ASKAさんの歌から伝わってくるからなんだな。


そんなことを昼間考えていたら、夜になってMan and Womanが聴きたくなった。

ASKAさんの好きな曲はと聴かれたら、きっとこの曲を真っ先に挙げると思う。

でも、この曲の物事の対比が持つ意味を、私は今やっと分かりかけた気がした。

奥深く下っていったところで、普遍的なものに触れて、そこに流れる温かさをじんわりと感じることが出来る。でも形になると、とてもポップで大衆的でもある。

ASKAさんの歌の魅力なんだろうなと思う。

 

色んなことに後になって気付く私は、やっぱりぼんやりしていて、目に見える情熱を持っていなくて、熱心なリスナーではないのかもしれない。

 

それでも、

どんなことがあってもそばにいてくれる歌を歌ってくれるASKAさんに、私は深く感謝していて、

今日もありがとう。