音楽を想う。考える。
キッチンで料理をしながらASKAさんの歌を聴いていたら、夫が突然、
「あれ、ルネサンス?」
と言った。
意味が全然分からなくて「はい?」って聞き返したら、
「文芸復興」
だって。
そうだよ良く気付いたね。だって大分聴いてなかったものね。
でも色々あったんだよ私の中ではね。
去年の秋頃から、私の生活をとりまく音楽の深度が急速に増していった。
そしてそれは、音楽ストリーミングサービスのSpotifyを利用し始めたことが明確なきっかけとなった。
始める前は、利用することに若干の戸惑いがあったことを覚えている。フリープランではシャッフル再生という制限がつくけれど、音楽が無料で聴き放題となる。
無料でなんでも聴けてしまったら、そのありがたみは半減してしまうのではないか。音楽に敬意を払わなくなってしまうのではないか。そんなことを考えていた。
なによりASKAさんは以前より、「音楽が手軽なものになって、音楽としてのポジションを失ってしまった」と、音楽が聴き放題になることに懸念を示す発言をしていた。
私にとって長い間、特別な響きをもって音楽を届けてくれていたASKAさんが発するその言葉は思いのほか重くのしかかった。
でも本当にそうなのか。自分で確かめてみなければ分からない。
だからやっぱり利用してみることにした。
その結果は予想に反して、私が抱いた戸惑いを払拭し、価値ある音楽体験を与えてくれた。
聴き始めた頃にまず感激したのは、ハワイで過ごした中高時代、ラジオで毎日聴いたポップソングス達との邂逅だ。
好きだったシンガーの曲はもちろん、誰の何の曲だったかも知らないけれど確実に身体に刻まれていた数々の曲たちに再会できたのは、Spotifyの魅力的なプレイリストのおかげ。
そして今まで関心があったけれど購入には至らなかった人達の曲を聴いたり、ジャンルやユーザーの嗜好に基づいたプレイリストからお気に入りの曲を発見するのもエキサイティングな体験だ。
クラシックにジャズ、ポップスとあらゆるジャンルの音楽を様々な切り口で体験し、新たなアーティストや曲との出会いに魅惑される日々が続いている。
そんな中で気付いたのは、ストリーミングによって音楽の価値が下がるどころか、私にとってそれは一層増して大切でなくてはならないものになり、音楽、そしてそれらを生み出すアーティスト達への敬意が高まっていったということ。
手軽になったのは音楽の聴き方であって、音楽そのものではないのではないか。
音楽の価値はどんな聴き方であっても不変であると、私にはそう思えた。
とはいえアーティストの立場に立てば、また違った捉え方があるのもまた確かなのだろう。心血注いで創作したものが、結果的にユーザーにとって無料で提供されるのは容認できるものではないという考えがあっても、それはとても理解出来る気がする。
ある時期、CDは何故どれも同じような値段で販売されているのだろうと疑問に思ったことがあった。
そこに注がれた資源なりコストはそれぞれに違うはずだし、出来上がったもののクオリティや価値は一律に同じではないのではないか。一流のフレンチレストランとカジュアルなブラッスリーでの食事代は違って当然だ。
これには、CD販売が複製を販売し、権利で利益を得るという構造であることが背景にあるのかもしれない。
そうだとしても、本当の価格は同じではないだろうという思いがあった。
だからASKAさんのアルバムToo Many Peopleに3,780円という価格がつけられたことを知った時、私はとても嬉しく思った。だってASKAさんの音楽はそれだけの(あるいはそれ以上の)価値を生み出していると思うし、販売したい価格で世に出すというのは大切なことだと思ったから。
そういう想いを持ってこのCDを購入して、大切に聴いて来たのだけど、いざストリーミングが私の前に現れたら、その考えが揺らいできた。
コンテンツの中身が何であるにせよ、その形態がデジタルなデータである以上、クラウド化されて流通していくのはごく自然な流れなのではないかと思えた。企業の基幹システムも、メールも写真も映画もそのように発展してきた。
音楽もその延長線上にあるもので、ストリーミングという形で提供されていくのは妥当な変化であると感じられた。
Spotifyのフリー会員は無料だけれど、すべての再生に対してアーティストへの印税が支払われている。
世界に目を向ければ、ストリーミングの成長が音楽市場の回復に寄与しているのも事実だ。
Spotifyを利用していると、なにより音楽への情熱をひしひしと感じる。もっとユーザーに音楽を楽しんでもらいたい、知ってもらいたいという意気込みが伝わってくる。
だから私はたちまちSpotifyが大好きになったし、有料会員を選択した。Spotifyのおかげで日々素晴らしい音楽に出会えることにとても感謝している。
ストリーミングへのシフトという大きな変化の中で、個々のアーティストがストリーミングに参加するかどうか、どこまで参加するかというのはそれぞれの考えによるものだし、当然尊重されるべきものだろう。
その一方で、ストリーミングで音楽を聴くたびに、私はASKAさんとは違う温度感を持って、まったく異なる景色を見ながら音楽に接しているのかもしれないと思ったら、なんだかそれは悲しいことのような気がしてきた。
音楽を愛する気持ちにきっと変わりはない。ASKAさんがストリーミングに参加しないということも私にとって大きな問題ではない。ASKAさんがダウンロード配信サイトを立ち上げたことはとても素晴らしいことだと思うし、その理念に心から共感もする。
でもたくさんの音楽を聴いて好きになるほど、ストリーミングがもたらす音楽体験にのめり込んで行くほど、ASKAさんと私の間の、共有できるはずのものが少しずつ失われていっているような気がした。出来ることなら、同じ気持ちを持って音楽を楽しめたら良かったのに。
Black & Whiteを聴いてみた。
もうCDはやめて配信にしようか大分迷って、やっぱり特典の「黄昏を待たずに」が聴きたくて購入したCD。結局、こちらは今も開封していないのだけれど。
“あなたと僕は同じ音の人”とASKAさんが歌うBlack & Whiteを聴きながら、私は果たして同じ音の人なのだろうかと考えた。
そうであったら良いとずっと思っていたはずだけれど、違うのかもしれない。知っているようで、本当は知らないことばかりだ。
どうも気持ちが乗り切らないまま聴いてしまったけれど、何度か聴いているうちに、洋風な雰囲気を感じた。
そしてこのアルバムが、ASKAさんが言及していたポップス、共有というものを体現したものであるのだろうということをおぼろげに感じた気がした。
でもポップスってなんだろう。共有できるものとは一体どんなものだろう。どの辺を洋楽的と感じるんだろう。
分析的に聴き始めたけれど、だんだんつまらなくなった。音楽を楽しむというのはまず理屈抜きの良さを感じることなはず。乗らない気持ちを分析ですりかえても続かない。
Black & WhiteもASKAさんの音楽もやめて、聴きたい音楽をひたすら聴くことにした。
オリジナルラブってこんな良い曲歌ってたんだ、かっこいい。浜田省吾ってすごいいい声じゃないか!! 子供の頃遠くで鳴っていたけれど反応できなかった音楽を改めて聴いて、新鮮な想いで楽しむ。
最近の人だって面白い。娘がパパとラジオで聴いた打上花火という曲が良かったというから一緒に聴いてみた。DAOKO。6歳の子をも惹きつける力ってなんだろう。
平井大やシンリズムはSpotifyのプレイリストのおかげで知ることが出来た。黒木渚も好き。宮﨑薫ちゃんはアルバム2枚とも持っているけれど、せっかくならSpotifyで聴こう。だってとっても応援してる。
洋楽は、90年代のポップスやエド・シーランにアデルも聴くけれど、ある日の朝はまずポリスを聴いた。
ポリスのページに関連アーティストとして出ていたデュラン・デュランを聴き、さらにそこで表示されていたJoe Jacksonという名前が気になり聴いてみる。あれ、これってものすごくオリジナルラブだよね?としばし興味深く聴いた。その後はそろそろColdplayが聴きたい気分になって再生し、MUSEに行き、気付いたらイギリス続きなので、R.E.Mを聴くことにした。Losing My Religionという曲はどこかに行きそうなのにどこにも行かなくて、でもなんだか浮遊している感じがすごくいい。
そのうち女性シンガーを聴きたくなった。ダイアナ・クラールのWallflowerを聴こう。大好きなこのアルバムは、数少ない手放さなかったCDの一つだ。Desparado、本当に好き。ASKAさんも聴いたかなぁ。色々聴いて、最後はやっぱりジャズが聴きたくなってビリー・ホリデイとエラ・フィッツジェラルドを聴いて今日はおしまい。
こんな風にあっという間に時間が経っていく。
音楽を聴きながら毎日、色々なことを考えた。
ポップスとは、その存在意義とは。どんなものが時を超えて残っていくのだろう。大衆的とは、普遍的とは。洋楽と邦楽の違い。メロディと言葉はどんな関係にあるのだろう。私達は何故音楽を必要として、これからの音楽はどうなっていくのか。テクノロジーは音楽にどのように貢献していくのか。
考えるほどに、音楽への感謝の気持ちが増していった。
気付けば私の音楽的日常にASKAさんが現れることはすっかりなくなっていた。ストリーミングが私に与えてくれる新しい音楽体験に没頭することで、もやもやとした気持ちが目立たなくなっていく気がした。
音楽が好きだ。
シンプルだけど、明確な想いがいつしか私の中に立ち上がっていた。
そしてある時、ふとASKAさんを聴いてみようかなと思う日がやってきた。今ならフラットに聴けるという気がした。
これまでと違った立ち位置で聴くASKAさんの音楽は、新たな佇まいを伴って私に響いた。たくさんのインプットを経て、純粋に音楽として向き合うことが出来たのかもしれない。
ASKAさんの歌や声や言葉や哲学のどんなところが好きでどこに共鳴するのか、今までよりもう少し分かった気がした。
そして結局のところ、私はASKAさんの音楽が好きであることに変わりはなくて、それだけで十分だったことに気が付いた。
一体私はいつどこでくぐり抜けたのだろう。
雨模様の中では、花がどこに咲いているかも見分けられないことがある。でもずっと足元に咲いてくれていたんだ。言葉よりもやさしいお花を、いつも一緒に育てて来たんだった。なんでうっかり見落としちゃうんだろう、私。
同じ音の人であっても、音楽から日常まですべての出来事に同じ和音を添えるかと言ったらそうではないだろう。
和音の一音の違いはその場では違和感のある響きとなるかもしれないけれど、全体を見渡せばそんなに大したことではないのかもしれない。
あるいは同じ和音の話をしているはずなのにどうも話がかみ合わなかったら、それはキーが違うのかもしれない。
キーが違えば同じ和音を奏でても響きも見える景色も違う。そうしたら一歩踏み出して転調してみることだってできる。そうか、こんな響きを持っていたのかと気付けるだろう。
どっちだっていいよね。
大切なのは、そこに共有できるものが存在するということ。
そうして私はやっぱりnot at allを聴いて、そうだよねって深く頷く。
ずっと聴いてきたことの重みを、しっかりとかみしめてみる。
ありがとう。