寄せて返す波のように繰り返すもの

 

私は時々不思議な夢を見るけれど、今年に入ってから何故か、判を押したように月に一度、ASKAさんが私の夢に現れる。

その日の夢では、とても穏やかな笑顔のASKAさんがふいに私の前に現れた。夢のとても浅いところにいた私は、4月のASKAさんの夢はもう見たはずなのになんでだろうと思い、目覚めてそうだ、今日から5月だったんだと気付き、月の変わりを知らせてくれた夢に、朝から幸せな気持ちになった。

そしてその時の夢の中では、信じることが楽さが流れていて、私はこの曲を文字通り、聴きながら目覚めたという感覚でいた。

音楽がリアルに聴こえてくる夢ってあったかな、なんて思いながら、起きてもこの曲が頭から離れなくって、久々にじっくり聴いてみた。

「忘れてしまった遠い約束事を
誰に謝れば僕はいいのか」

このフレーズに、何度泣いたっけなって思い出した。だんだん普通に聴けるようになっていたけれど、夢の間に心に何か起きたのか、しんみり、またぐっときた。

そうして思いにふけってみたら、やっぱり、思い出すための道というものがあって、思い出すために私達は歩いているのかなと思えてきた。

歩いている中で、時々、遠い日の自分に向かって声をかけて、抱きしめることが出来たらいいなと思う。


私にとってのASKAさんの存在とはなんだろうと思うことがある。私の日常に、物理的には存在しないのに、音楽を超えて、影響を受けていると感じるのは、何故なんだろう。

振り返ってみれば、私はつくづく、ぼんやりしたファンだったなぁと思う。

SCENE IIIを3枚も購入したのにそのアルバムの良さが分かったのは10年以上経ってからだし、各地でライブに行ったわりに記憶からすっぽり抜け落ちているものがあるし、ファンレターだってたった一度しか書いたことがない。

ASKAさんが歌詞カードにない歌詞を歌っているとブログに書かれていても何のことだかさっぱりピンと来なかったし、ASKAさんのブログをいつも読んでいるけれど、頻繁にコメントをする熱烈さはどうやら持ち合わせていない。

no doubtがサビで転調しているのを数日前、楽譜を見て初めて知ってとても驚いた。これはそんなに良くある転調ではないような気がするけれど、どういう効果があるのだろう。全然気付かずに聴いていたなんて。そしてこの曲は男女の別れの歌で、それをどうしてアルバムのタイトルにしたのだろうとか、このタイトルにはどんな意味が込められていたのだろうと今更になって気になった。

当時はそんなことを少しも考えずに何となく楽曲達を聴いていたような気がして、私は、ASKAさんが歌詞一行に込めた想いや、音に乗せた心というものを、これっぽっちも受け取っていなかったのかもしれないと思った。

そしてアルバムno doubtの後のいつからか、何となく二人の音楽を聴かなくなっていたんだった。夏の肌が消えるように、離れてしまったのかな。ファンクラブも更新しなくて、慶応ライブで再会するまでの数年間、積極的には聴いていなかった。

2014年の事件の後は、随分長い間、曲を全く聴かなくなってしまってたな。

でも、事件があって、そしてASKAさんがブログを書いてくれて、それらがあったからこそ改めてASKAさんの楽曲の素晴らしさに気付くことも出来た。

こんなぼんやりリスナーな私を、長い間引き寄せ続けてくれたASKAさんと、ASKAさんの生み出す音楽は、気付かずとも私に作用して、戻って来られる場所をいつも用意してくれていたんだな。そこにはとても温かくて、心のどこか深いところで大切なものを共有していると感じさせてくれる何かがある。


長きに亘ってそんな存在でいてくれる人がいるというのは幸せなことだなと思いながら、夢のことを思い出していたら、ふと、夢で流れていた曲はどうして「信じることが楽さ」だったのだろうと気になった。アルバムの中のとても好きな一曲ではあるけれど、直近でよく聴いていたわけでも、曲について思いをめぐらせていたわけでもなかったのに。

と考えていたら、思い出したことがあった。夢を見る前日、私は海辺の公園にいて、子供達が波が来るたびきゃーと言って戯れるのを後ろから見ていた。そして打ち寄せる波をぼーっと眺めながら、どうして波は、寄せては返すことを繰り返すのだろうって、ずっと考えていた。

そこに思い至ったら、急に曲と色々なことが繋がってきた。波打ち際のASKAさんに、ありがとうって伝えたくなった。

そして更にもしかしてと気になって、私は何日おきにASKAさんの夢を見ているのだろうと思って、夢日記を見返して平均を計算してみたら、ぴったり28日だった。ねえねえ聞いてよって夫にそのことを話したら、「だから何?」そして「その話、聞いたらすごーい!って言ってくれる人に言えば?」と笑って一蹴されてしまった。うん、そう言うと思ったよ。

でも人に話すにはいささかややこしい話だから、ここに書き留めておこうっと。

なんだか幸せー。
もう一回聴こう。

700番 第一巻

 

この本は確か、3月20日に届いて、翌日から読んで、23日にはざっと所感を書き終えていた。だけどどうも、その書いた文章を読み直したり推敲するのは気が進まなくて、この本について考えをめぐらすとか書き記すというのが何故だかとても重荷なことのように感じてしまった。

第一巻を当初ネットで読んだ時の衝撃と比べれば、その受け止め方は大分変わって、内容を冷静に受け止めることが出来ていた。当時は言い訳のように聞こえてしまった薬をはじめた理由というのも、時間が経って改めて読むと納得出来た気がするし、あの時は、この文章が後遺症の影響によるものなのか私には全く判断出来なかったけれど、そうではなかったのだろうと思えた。

これだけの時間を経て、改めてASKAさんの変わらない主張に触れる、その意味を感じていたと思うのだけど、どうも、読み終えると、なんとも言い表しがたい気持ちになってしまった。

ここに、長くはとどまっていたくないという、そういう気持ち。それは、純粋な読書体験としての性質に起因する何かだったのかもしれないとも思うけれど、考えてもさっぱり分からない。

私はこの本を早々にしまい込んで、他の本を読むことにした。その時の私はあらゆる分野の本を乱読していて、それらが自分の中で繋がってくるのを楽しんでいたけれど、この本を読んだ後は、とてもそんな気分になれなくて、私を受け止めてくれる一冊にすがりつきたい気持ちだった。

目の前にある本達をぱらぱらめくって、これだと思った。村上春樹のエッセイ。職業としての小説家。村上さんの、平易な言葉で書かれたそれは、するすると私の心に染み込んで、何度も共感する場面に出会って、それは深い安堵感を感じる、貴重な体験となった。

そして読み進めていくと、小説を書くのにあたり物事を深く観察し、考えをめぐらせるということについて、村上さんはこう言った。

「「考えをめぐらせる」といっても、ものごとの是非や価値について早急に判断を下す必要はありません。結論みたいなものはできるだけ留保し、先送りするように心がけます。」

「後日、もっと気持ちが落ち着いたときに、時間の余裕があるときに、いろんな方向から眺めて注意深く検証し、必要に応じて結論を引き出すことも出来るからです。」

どうして私にこんなに的確な言葉を投げかけてくれるの。村上さん、ありがとうー。そうだよね、結論をすぐに出す必要なんてないんだよねって、とても心が軽くなった。もう私はどっぷりハルキワールドにもぐり込んで、そこから抜け出したくなくなった。

しばらく、ASKAさんの音楽をそんなには聴かなくて、文章を綴る代わりに本を読んで、子供達とたくさん遊んで、大好きなミシンを取り出して、毎日夕飯をどうしようかと考えて、そんな日々を送っていた。

そうしたらやっぱりだんだん気になってきて、久しぶりに聴いてみたら、なんというか、とても良かった。それはたまたま、no doubtだったのだけれど。
好きだなぁ、この曲も、ASKAさんも、やっぱり。

ようし、今ならまた読めるかもしれないと思って、第一巻をどこに置いたかしばらく探し回るところから始め、見つけて開いてみた。

そうしたら、なんでだろう、やっぱり読めなかったのだけれど、当初書いた自分の所感を読み直してみて、その芯となる部分についての考えは変わっていないということは確認出来た。

ずっと考えていた、去年の逮捕のこと。ASKAさんが無実であったならば、一体何故、あんな大事件を経験しなければならなかったのだろう?逮捕されたことも、メディアの行動も、釈放も、あれは一体何だったのだろうと思ってしまう。

ASKAさんは700番第一巻の前書きに、この本には、第ニ巻/第三巻での行為にたどり着いた理由が書かれている、と述べていた。

私はそれをとても理解出来たと同時に、この一連の出来事は、彼女の無実を証明するために、ASKAさんが身を持って体現したという出来事だったのかもしれないと思えた。

この二回目の逮捕があって、その経緯と理由をASKAさんが説明する機会があって、それを知ることで、私ははじめて、ASKAさんの第一巻の主張を理解することが出来たのではないかと思う。だから、そういう意味においては、必要な出来事だったのかもしれない。

でもすっきりしなかった気持ちのその正体は、まだ分からない。ぼんやりそうかもしれないと思うことがあって、それはその女性のことを全ての文脈から切り離して考えた時に思うことと、全体の調和はどこに求めたら良いのだろうという、そこに芽生える自分の中の矛盾。多分そういったものがある。

でも矛盾は誰の中にもあるもの。時に矛盾こそが私達を前に進めてくれているのかもしれない。だからそれはそれでいいのかな。描いた絵を何度でも直せばいい。そこに立ってその時分かることばかりだものね。

not at allが聴きたくなったよー。
今日は、そんな気分。

信じるという意味

 

これまで私は、誰かを信じるとか信じないという風に考えたことがなかったと思う。あえて答えを出すのなら、起きたことのありのままを受け入れる、という考えでいた。

だから、信じることが楽さとASKAさんが言うその意味がいまいちしっくりこないでいた。この歌の一行一行を手に取るように感じることが出来る気がするのに、信じることが楽、という言葉だけは何となく入ってこなかった。曲のタイトルなのに。

 

信じるって、なんだろう?

頭の片隅でぼんやり考える日々を過ごしていたある日、娘の本が目に留まってぱらぱらめくっていた。「こころのふしぎ なぜ?どうして?」という本。

そこに、人を信じるにはどうすればいい?という質問を見つけた。答えはこうだった。「人を信じるには、まず自分を信じる心を持つことが必要です」。

なるほど。相手ではなくてまずは自分なんだ。

そうしてまた考えているうちに、気付いた。信じるというのは、例えばその人が、期待する行動をしてくれることを信じる、ということではないのだと。「信じていたのに裏切られた」は、信じていなかったということなんだ。

信じるとは、その人との関わりの中で、自分に起きること全てを引き受ける、ということなんだな。

そう思えたら、とてもしっくりきた。つまり、おんなじことだ。

 

幼稚園の園だよりに、児童心理学者 倉橋惣三の言葉が紹介されていて目に留まった。

「心もち
濃い心もち、久しい心もちは、誰でも見落とさない。かすかにして短き心もちを見落とさない人だけが、子どもとともにいる人である。
心もちは心もちである。その原因、理由とは別のことである。ましてや、その結果とは切り離されることである。多くの人が、原因や理由をたずねて、子どもの今の心もちを共鳴してくれない。結果がどうなるかを問うて、今の、此の心もちを諒解してくれない。
その子の今の心もちのみ、今のその子がある。」

 

信じる=引き受けるというのは、どれだけその人の心もちに寄り添えたかということになるのかもしれない。そしてそれはどこに行き着くかと言ったら、愛、ということなんだろうな。

学びは本当に深くて果てしない。
一つ知ると、また次のことを知りたくなる。

何回もその道を通ることで、やっと見えて来るものがあるけれど、それでも全てはいつまでたっても見えない。

道はいつでも新しい。私にも。

La La Land

 

「歩かなければ何も始まらない」

音楽と人を読んでから、ASKAさんのこの言葉がずっと頭の片隅にあって、それはじわりじわりと私の歩みにも影響してきているような気配がしていた。

そんな思いを抱く中、一足先に出張中の機内で観てきた夫に勧められて、映画「La La Land」を観に行った。ミュージカル、ジャズ、ピアノ。これはもう、すぐに行かなくっちゃ。

行く前日、泣ける映画かと夫に聞いたら、うーんそういうのではないよ、と言うので気楽に行ったのだけど。誰だそんなことを言ったのは、ティッシュを探すのが大変だったじゃない。

わずか2時間の間に、こんなに笑って泣いて、ワクワクして、何かを始めたくなるエネルギーをもらえるなんて、最高のエンタテインメントだ。

そして映画を観終わってみると、「歩かなければ何も始まらない」という言葉が、「歩けば何かが起こる。そしてそれはきっと、良いことに違いない」という風に私の中で置き換わっていったことに気付いた。

以前、雑誌のインタビューでASKAさんが発した「表現というものは、ポジティブであるべきだと思う」という言葉に私は深く共感して、その言葉を大切にしてきたのだけど、今改めて思った。

在りたいエネルギーを発し続けることで、自身は自ずとその方向に近付いていくし、そういう人や状況を引きつけていく。

だからやっぱり、思ったことしか起きないし、思っていないことは起きない。

そう思ったら、何だか急に、やりたいことがいっぱい出てきた。ミアがくるくると衣装を変えては歌って踊り出すように、私もお気に入りの洋服を着て、足を鳴らして街を歩きたくなった。セブが葛藤の中でも、自分の好きな古き良きジャズを追求する姿に、またジャズを聴きに行きたくなった。この俳優はわずか3ヶ月でピアノをマスターし、映画中の演奏も全て自身のものであると知り、私にも何だかものすごい力が湧いてきた。

久々に自分の観たい映画を映画館で観て、もう一つ思ったのは、やっぱり映画というものは、映画館で観ることで一番その芸術を味わえるように出来ているのだろうなということ。映画なら映画館のフィルムで、小説なら本という形で。

と考えると、音楽はどうだろう。CDは一つの完成された形なのだろうけど、生の音楽からでしか感じられない空気感や息づかい、気のやりとりや、その場所でしか起きない何かがある。音楽は詰まるところ振動であるから、その振動を生で受け止めるのが最高の味わい方なのかもしれない。

ASKAさんとその日を共有するのはまだ少し先だろうから、ASKAさんが準備運動をしている間、私はジャズを聴きに行こう。子供が小さいから夜出歩くのは夫だけだなんて誰が言ったの。誰も言ってなかった。
楽しいことは、何でもやりたい。

Album 「Too many people」

 

音楽を言葉にして表現するのはとても困難なことのような気がする。目に見えないものだから?そうかもしれない。でもそれに加えて、音楽はたやすく言葉にしてはならないような、神聖なものという気さえしてしまう。感動が大きいと、なおさらに。
 
私は音楽を語るのに十分な言語を持ち合わせていないから、Too many peopleを語るとなると考え込んでしまう。それに、まだ色んなことに、答えを出したくはない。とはいえASKAさんの放つ音楽は私にとって特別な振動となって共鳴するのは確かで、その気持ちを言葉にしておきたいとも思う。
 
このアルバムをポストで受け取った私は、意外にも冷静だった。するするとテープを開けて、歌詞カードを取り出してクレジットを見て、くすくすと笑った。
 
そうして何日かかけて曲を聴いて、このアルバムの置かれた境遇に想いを馳せてみると、一言では言い表せないような気持ちが込み上げてきた。アルバムをこうして手に出来たこと自体がなんだか奇跡みたいで、開けてみればそこにはASKAさんのたくさんの想いとくぐり抜けてきた景色が詰まっていて、ASKAさんを想う仲間たちがいて。全てを抱きしめて戻ってきてくれたASKAさんに、心からのおかえりなさいとありがとうを伝えたい気持ちになった。
 
そしてこの作品には、例えば村上春樹氏の言葉を借りるなら、「インターネットで「意見」があふれ返っている時代だからこそ、「物語」は余計に力を持たなくてはならない」というメッセージがとても当てはまる気がした。
 
温度の差なく並んだ意見たちはインスタントに使い回され、そのうちコピーしているのは文字なのか思考なのか分からなくなって、どれが借り物でどれが自分のものなのかの区別もつかなくなってしまう。そんな中に私たちは身を置いている。
 
でも、「Too many people」という物語はね。
ちっぽけな言葉の棘は歩けば落ちるように、桜の花は必ず散るように、 落ちるものは落ちて、物語が聴く人の心に深く染み込んでいき、 時間を超えて存在し続けていく。成長もする。 そういう力を持っているのだろうな。
ASKAさんだけがくぐり抜けた景色と想いが、ASKAさんの体温を持ってそこに流れている。それは可変できないもの。
 
そんなことを思いながらアルバムを聴いて、やっぱり時間に間に合わない僕にほっこりしたり、澄み渡る空のどこか、いつか、歌声を聴けるかなって思ってみたり、夕暮れに伸びる影に自分をはかってみたり。いろんな想いを抱きながら、ただ感じることに、身を委ねてみた。

 

このアルバムは私にとってまだ、気が置けない関係、というわけにはいかなくって、聴く時は少しの緊張とかしこまった雰囲気が漂う。何かをしていても、聴き流せるほどではなくて、だんだん居ずまいを正し、正面向いて身体で音を受け止める。どうしても、一緒に探したいものがある。
 

これだと思って決めた道を歩いていると、だんだん心細くなって引き返したくなったりする。違う道も歩いてみるけど、つまずいてすりむいて、これも違ったかもしれないと思ってしまう。
 
進むところが分からなくなって、たまに立ち止まって考える。

私は、私の約束を果たせているのだろうか。

忘れたままだと、どうなってしまうの。


気付かないことばかりで途方にくれてしまうけれど、それでも時々、席を譲ってくれる位の偶然のような出会いが、やっぱり約束だったのだろうと思える時がある。
 
歩いている時はそんな風に思えなくても、縁ある人を巻き込みながら、訪れる季節を抱きしめながら歩んだ道は、とても埃っぽくてとても揺れていたとしても、いつしか振り返ってみたら、きっとそれは円を描いているんだろうな。

 
一行ずつ、どうして涙がこぼれるの。

私は、約束を思い出せるのかな。

いつか、戻って来た時の私には、どんな景色が待っているのだろう。そこにASKAさんは、いてくれるのかな。
 
いつだって、分からないことだらけのまま朝を迎えてしまうけれど、この不自由さを、もうちょっと楽しんでみようかなと思わせてくれた物語に、どうもありがとう。

 

いつも温かな繋がりを感じさせてくれるASKAさんに、たくさんの感謝を込めて。

理由

時々、あの空に消えた飛行機のことを考える
星になったあの人達を想う

やりきれないほどの気持ちというものを想像してみる
どんなに上を向いてもこぼれてしまう涙のことを思い浮かべてみる

どうしようもない位受け入れ難いことにも
出口の見えない苦しみや孤独にも
理由があってほしい

前へ進むための、理由があってほしい
生まれ出ることと同じ位の不可欠が存在するのだと確かめたい

 

何もかもを知っている星空を見上げてみる

そうしたらね

きらきら瞬く光を見つめているだけで
どうして涙が出ちゃうんだろう

っていう位、分からなくなっちゃったよ

教えてってお願いしたのにね

でもずっと星を眺めていたら
朝を迎えることの理由は分かった気がしたよ

 

イメージ

友人から、レンタルしたBlu-rayが映らないので、試しに何でもいいからBlu-rayを貸してと言われた。

我が家で所有しているBlu-rayはこの方のものだけであります、と言って昭和が見ていたクリスマス!?を差し出した。

先日そのお家に行くと、「やっぱり映らなかったー。私もちょっとASKA観てみたかったよ」と無邪気な笑顔で彼女が言う。

そして、身を乗り出して続ける。

「ねえねえ、それでさ。ASKAの何が良くて好きになったの?曲?歌詞?声?それとも顔?どれ?」

えっ。そんなこと誰かに聞かれたのっていつ以来かしら、この空間でこの話題になるなんて想定外すぎるー。と思いながらも、

「ぜんぶー♡」

と答えたわけなんだけれども。

それから、彼女はスピッツが好きで、スピッツの歌詞もなかなか難しいという話になった。

すると彼女が唐突に言う。

「私ASKAの曲って全然知らないんだけどさー、なんかASKAの歌って、女の人と一晩過ごした次の朝、って感じがしちゃうんだよねー」

きゃー何それ‼︎ ていうか知ってる曲って3曲しか出てこなかったじゃん。チャゲアスと言えばモーニングムーンでしょ、に始まり、SAY YESは知ってる、あと辛うじて「今夜君のこと〜、ニャニャニャニャー」だったけど。

でもその割に、言わんとしていることは分かる気がするよ。

スピッツはね、もっと学生の恋愛みたいな、そういう清々しさがあるの」

えーそうなの!? でもそう言われると、聴き込んだことはないけど、少女とかレンゲ畑が出てきそうなイメージ。そうか、両方とも、言い得て妙かもね。

なんて言って大笑い。

その後は、一連の事件の話になった。これらの出来事に対して友人が持ったイメージは、およそ世間一般が抱いているそれと同じなんだろうなと思いながらうんうんと聞いていた。

でもね、そんな状況になっても、ASKAさんは世にむけて音楽を投げかける、それをする、っていうのが素晴らしいの、と、隣でハイハイって顔をしてる夫と、今にもソファで酔っ払って眠りに落ちそうな彼女の夫を横目に、熱弁を振るう私。

一度染み付いてしまったイメージを覆すのはきっと難しい。でも、歌はそこに見え隠れする作り手の生き様があってこそ響くものだとも思う。ASKAさんは、全てを携えて、新しい魅力として音楽に吹き込んだ。それに気付いた人達が、新たな聴き手となっていくんだろうな。

なんてことを翌日、娘とサーティワンでアイスクリームを頬張りながら考えていたのだけど。

どうしても、昨日のあの一言が可笑しくって思い出し笑いしてしまう。

夜、帰宅した夫に聞いた。

「ねえねえ、昨日のあの例え、どう思う?」

少しの間を置いて、夫はこう言った。

「そうだねぇ、確かに艶っぽいところがあるよね、ASKAさんは。スピッツは確かに清々しいんだよ。」

艶っぽい…

そうかぁ、それって、あれは褒め言葉だったってことね!

なんか楽しくなっちゃった。

みんな大好きありがとう。

それでも、今がいい。

そう思えることに、ありがとう。