温かいポジティブな代償

思えば、私が言葉について考えを巡らせるようになったのは、ASKAさんのブログがきっかけだった。

ブログが始まった当初、ネット上にはASKAさんについてのたくさんの意見が溢れていて、それが自分に向けられたものではなくとも、胸をえぐられるような気持ちになる言葉が飛び交っていた。

 

言葉のナイフは一度放たれたらそれはもう落ちるところを知らなくて、受け止められる人もいないまま、どこまでも人の心を突き刺し続けているような気がした。

はたから見ている私でさえこのような気持ちになるのに、この言葉を自分に向けられるというのはどんなものなのか、とても想像出来なかった。私にはとても、耐えられそうにないと思った。

 

言葉は一度放ったら、もう自分だけのものではなくなり、取り消せるものでもない。だからどのような意見を表明し、それをどのような言葉で表現するか、よくよく考えなくてはならない。
とういうのがそこから得た私の教訓だった。

 

その上で私は、このブログに言葉に綴ることにした。自分が向かいたい景色に向かって、言葉を書きたいと思った。それは心地よい和音を探して奏でることにも似ている気がした。そして、自分がそこに何度でも戻って来たいと思える言葉を書きたかった。

 

ある時、村上春樹のエッセイを読んでいたらこんな言葉に出会った。

何かを非難すること、厳しく批評すること自体が間違っていると言っているわけではない。すべてのテキストはあらゆる批評に開かれているものだし、また開かれていなくてはならない。ただ僕がここで言いたいのは、何かに対するネガティブな方向の啓蒙は、場合によってはいろんな物事を、ときとして自分自身をも、取り返しがつかないくらい損なってしまうということだ。そこにはより大きく温かいポジティブな「代償」のようなものが用意されていなくてはならないはずだ。- 村上朝日堂はいかにして鍛えられたか

 

温かいポジティブな代償。
なんて素敵な言葉だろうって思った。

 

好きなものを好きだという時には、多少言葉足らずだったとしても、思いが行き違うことはそんなにない。でも否定のメッセージを伝える時には、細心の注意と大きな覚悟が必要だ。そしてそれは、そこに温かくポジティブな代償が用意出来る時にだけ、伝えるべきものなのだと思った。

この村上さんの言葉はその後、私の大切な指針となった。

 

そして今。
アルバムBlack & Whiteが私の中で、上手く響かない。一度や二度聴いて分かるものではないのは当然だろう。でも、聴くという物理的行為に至ることがそもそも難しい。

そしてその理由は、この作品そのものに起因するものだけではないということにも気付いている。心がひとつの色で塗られてしまっているから、なんだ。

ぐるぐるとめぐる袋小路のような思考をどうしたら良いのだろう?と考える日々が続いた。

言いっ放しの批判は簡単だ。あるいは何も語らず離れるということも出来る。あえて深く向き合うことを選ばなくたっていい。

 

では、本当に言葉にして発する必要があるというのはどんな時なんだろう。ポジティブな代償を差し出せるかというのは、もしかしたら副次的な要件のような気もする。

それは、言葉にすることが、批判そのものが目的でもなく、自分を損なうことに繋がることでもなく、自分を保つために必要な時、かもしれないと思った。言葉にしないことが、自分を損なうことになる時、と言い換えられるかもしれない。

そうだとしたら、やっぱり私は向き合わなくてはいけないのだろうな。

 

「手を振ってサヨナラした人にまた出会った時に、「やあ、久しぶり」って笑顔で手を握る関係を作っておきたい」

と語るASKAさんのインタビューを読んだら、ますますそう思った。私も、そうありたい。

音楽だけで抱き合えてたら、楽なのに。

だって久しぶりにnot at allを聴いたら涙がいっぱい出た。涙が出るというのは共鳴のひとつの形なんだ。

向こう側の景色を想像してみる。この歌が伝えてくれた大切なこと。

私は、どこかひとつを、くぐり抜けられるのだろうか。

音楽のゆくえを考える。CDと、配信と。

 

CDは今後、コレクターのものという位置付けになって行く。

これからの音楽の供給は、間違いなく配信になっていきます。 CDは、そのアーティストのものを手元に置いておきたいという、 言わば、グッズのようなものになります。もう、そうなっていますね。

10月の発表。 - aska_burnishstone’s diary

 

ASKAさんの最近のこのような発信を目にして、CDはこれからも残っていくのだろうかということを考えるようになった。

この間CDのほとんどを処分してからは、さらにそのことを考えるようになった。私にとってCDプレーヤーはいずれ不要になるものだろうと感じた。

 

CDを聴くにはCDプレーヤーが必要なわけだけど、今後もその需要はあるのだろうかと考えると、見込みはとても低いような気がする。今の若者が音楽を聴く手段は、スマホでYouTubeの音楽を聴くというのが主流らしい。CDプレーヤーがそもそも何であるか知らないという高校生の話も見かけるし、彼らが将来CDプレーヤーを購入する可能性は、限りなく低いだろう。

スマートフォンで音楽を聴く方法

そうするとCDは、今CDプレーヤーを持って聴いている人達がいる間は存続するだろうけど、市場が先細りしていくのは確実だろう。

とはいえ見渡すと、日本ではまだまだCDが売れ、盛んにリリースされている印象だし、レコードショップも少なくなったとは言え実感としてはまだ存在感がある。

 

そんな状況を前に、私は今後CDと配信(というとりあえず二択)だったらどちらを選ぶかということを考えることになる。

CDも配信で購入する音源も、突き詰めると複製可能なデジタルデータであるから、そこにどんな優れたコンテンツが入っているかに関わらず、そのコストは限りなく無料に近付いていく。

データを取得するという点で結果が同じであれば(厳密には音質が異なるけれど)、そしてそこだけを考えるのであれば、ユーザーにとってはより安くて便利な配信を選択するというのは妥当な選択肢だと思う。

 

でもその一方で、CDと配信ではアーティストにとっては事情が違ってくるという現実もある。配信ではさまざまな権利料や流通手数料で大半が引かれ、アーティストの手元に残るものが少ないという。

www.m-on-music.jp

 

だからCDを売るために、例えば特典や権利を付けるというのも分かる。数年前のスガシカオさんの「ダウンロードだとほとんど利益がない。CDを買ってもらえると制作費が補える」という発言も、とっても切実に響いた。ユーザーとして出来ることをしたい、という気持ちになった。

でもしばらく考えて、それでいいのかなって思った。アーティスト側の事情を鑑みて、本当は配信の方がいいのだけどあえてCDを買う、っていうのは、健全な経済ではない気がした。

ユーザーにとって最も合理的で最良の選択が、アーティストにとっても一番良い結果をもたらすのが、理想の姿だろうと思った。

 

そう考えると、今の状況には歪みがある。ユーザーにとっては配信の方に分があっても、アーティストにとってはCDの方が利益が出るのでこちらを買ってほしいという状況になっているとしたら、それはお互い不幸だと思った。今の時代にあった、アーティストにきちんと還元される新しい権利の概念やシステムを作っていくことが必要になってくるのだろう。

 

とそんなことを考えていたら、ASKAさんの配信サイトWeare設立のお知らせが。

aska-burnishstone.hatenablog.com


ASKAさんなら、そういう構想があるかもしれないと思っていたけれど、まさかこんなに早くに、本当にやってしまうなんて。ASKAさん、かっこいいよー。涙。

 

JUDY AND MARYギタリストのTAKUYAが2015年のインタビューで、音楽が売れてもアーティストに還元されない状況について、「多分もう全く新しい発想で、一から音楽やパフォーマンスを考えて、お金にしていって、管理する方法を誰かがやって大成功して巻き込んでくしかないと思うな。」と言っていたけれど、今まさにASKAさんがこの入口に立ってるんだよね、と思ったら感慨深い気持ちになった。

 

音楽を愛する人達が安心して活動できる環境があるというのはとても大切なことだと思う。誰かがやらなくてはと思っているその誰かがASKAさんであったのは、あの場所をくぐり抜けてきた今のASKAさんだったからこそだとも思う。

 

新しいことを始めると、向かい風も吹き、小石も飛んでくるかもしれない。大きなことを成し遂げるための、ちょっとした条件なんだろう。

確固たる理念を持って突き進むASKAさんが、音楽シーンに新たな風を巻き起こしていくのを、熱い眼差しで応援していきたいと思う。

 

 

 

さて、最近の私がもっぱら音楽を聴いているのはSpotifyで、今日も朝からずっも聴いている。これによって私と音楽との関わりがすっかり様変わりしたと言っても過言ではないと思う。

ASKAさんは、聴き放題が「世間の常識となっていくことに警鐘を鳴らしたいという気持ち」があると述べていた。

どうなんだろうな。ゆっくり考えよう。

自分のためにやりきる

 

「自分の仕事をつくる」という、「いい仕事」の現場を訪ねたインタビュー記録の本を読んでいる時、こんなエピソードに出会った。

それは、あるピアノ奏者に「音楽家にとって、もっとも重要な能力は何か?」という質問をしたところ、迷わず「聴く能力」であると答えたという話で、そのピアノ奏者は、

「もし「自分は十分にいい音が出せている」と感じたら、そこがその人の音楽の上限となる。だから、常に聴く能力を磨き続けることが必要である」

と話したという。

 

これを読んだ時、ASKAさんの過去のインタビューの言葉の数々を思い出し、数珠のように繋がってきた。「ずっと勝負にこだわっていく」という意識がなくなったときは曲に対して「完成だ」と思う道のりが早くなるということ(音楽専科 2002 Winter)。才能があるからこそ他者の才に気付くことができ、己の才能に磨きをかけられるということ(ぴあ&ASKA 2012)。時間=命を費やして深みに入るということは、色々な感覚を身に付けるということで、その感覚を身に付けた者同士しか分からないことがある。表面にはない、深いところにあるものに気付いていくことを、作り手として大切にしたいということ(Rolling Stone 2012.11)。

 

その結果というのはもしかしたら、聴き手が念入りに聴いても、気付くことがないのかもしれない。そこまでやらなくても良いと思う人もいるのかもしれない。だけれど幼き日のスティーブ・ジョブス父親に「良いものを作りたければ、たとえば見えないタンスの裏側まで美しく仕上げることだ」と言われ、その哲学を貫いたように、ASKAさんもまた、見えないところまで徹底的にこだわり、常に革新を続けていっているのだろうと思う。

 

そしてきっと、自分のためにやりきったという達成感が、作品に真の輝きを与える。それは見えないところで伝わり、聴き手にとっても代替のない喜びを生み出すことに繋がるのだろう。もしそこに妥協が1ミリでも存在したら、その曇りを聴き手はきっと、見逃さないだろうと思う。

自分の喜びのため、という究極の行動源泉が、受け取る人にとっても喜びをもたらすんだな。アダム・スミスの見えざる手みたい。Man and Womanも、そういうことかもしれない。やがて生まれてくる自分のために。

 

ASKAさんは、深さを追及する一方で、歌という形になった時にリスナーと共鳴しあえる絶妙なバランスを生み出していると思う。己の世界の深さと、普遍的なものの両立。このバランスはどうやって生み出されるのだろう。私にとって、ASKAさんの歌に惹かれる最大の理由かもしれない。

 

そんなことを考えていたら、夜が更けた。

Too Many PeopleのMVを観て、感無量になった。届いた時、パッケージに本当に「+いろいろ」って書いてあって思わず笑ってしまったけれど。お茶目なASKAさん。私の中にもいろいろな想いの断片が発生したけれど、私のCPUはとっても処理能力が遅くて非効率で、まだ上手く処理できなそう。想っていること、書きかけのこと、たくさんあってもそのうちそのままどこかにいってしまうこともしょっちゅうだな。そういえばファンレターだって、投函したのはたったの1通だったけれど、書きかけて完成しなかった手紙、何通かあったっけ。

 

でもそんな私が、ここに言葉を綴ることをほんの少しずつでも続けていられるのは、そこに自発的な喜びが存在するから。そしてそれは、ASKAさんが大股で歩く姿を日々見つめられるという喜びによって増大し続ける。

だから毎日、どうもありがとう。

これから音楽をどうやって聴こう

 

ふと思い立って、家の中のものをどんどん減らし、片付ける日々が続いている。新しい風の通り道が出来るようで、清々しい気分になる。

AVボードに並んだCDを眺めて、やっぱりこれらも処分することにした。以前より大分減っていたけれど、もうCDを持つのをやめようと思った。

一枚ずつiTunesに落として、お気に入りのCDは、聴き分けられるか分からないけど一応Appleロスレスで取り込んで…とやっているうちに、どんどん引き出しにスペースが出来て来た。

作業をしながら、「今時CDで音楽聴いてるなんて古いよって友達に言われて、Bluetoothスピーカーを買っちゃった」と言っていた友人の話や、「昔に比べて全然音楽を聴かなくなった」と言う別の友人の言葉を思い出していた。そしてもちろんASKAさんのブログでの発信も頭にあって、これから音楽の聴き方はどうなっていくんだろうな、なんてことをぼんやりと考えていた。


数日かけて大分CDがなくなった。
残ったのは、少しのクラシックとジャズのCDと、引き出し一段を占めるASKAさん関連のCDになった。ASKAさんの言う通り、コレクターのグッズだな。

一気に増えたiTunesの音楽を手早く聴けるように、PCをアンプに繋いで、スピーカーから聴けるようにした。とりあえずこれでいいか。

でもCDがほとんどなくなったのなら、場所を取る我が家の古いCDコンポももう不要かもしれないと思って来た。買い換えるとしたら?CDはまだあるけれど、CDプレーヤーを買うという選択肢はもうないだろう。パソコンにスピーカーを繋ぐのが現実的かしら。どんなものがあるのかしらと見てみる。なんだか色々あるけれど、DADAレーベルスピーカー、気になるー。

そんなことを考えているうちに、ふと、とっくに予約したBlack & Whiteは、配信ではなくCDで購入するので良かったかなと言う考えが頭をよぎった。私に取って歌詞カードは大切で、ASKAさんの言葉を文字として眺めたい。そのうえASKAさん、次のカーブが来たらキスをくれないか、ってどんな風に歌うんだろう、気になり過ぎる。

 

ASKAさんのこれまでのCDは、今のところ手放すという選択肢は見当たらない大切なコレクション。だけれど、これからもこのコレクションを続けていきたいかと言ったら、なんとなくそういう温度感ではないかもしれないなと思った。色んなものを、ミニマルにしていきたい。

配信で音楽を購入するというのが、作り手にとってもリスナーにとっても、win-winになものになっていくと良いなと思う。

ASKAさんは、あの角の向こうに何が見えているんだろう。

個人商店・DADAレーベルのこれからに、わくわく。
スピーカー、買えるといいなー。

MV撮影

 

8月の下旬、夫の実家を訪ねた。
先に帰省していた夫から話を聞いていた義母が真っ先に尋ねて来たのは、ASKAさんのMV撮影のことだった。義母の中でいつの間にか、私はあの事件以来ASKAさんのファンをやめたことになっていたらしく、私が撮影に申し込んでいたことにとても驚いていた。

義母は撮影の報道を割と熱心に見ていたようで、こう続けた。「みんなごめん、って一言言ってたけど、あれだけじゃ納得出来ないんじゃない」

そうか、なるほどそういう受け止め方はもしかしたらめずらしくはないのかもしれない。そう思いながら、こう伝えた。私には気持ちは十分伝わって来たこと。何をやっても悪く言う人もいれば応援する人もいる。私は応援している、ということ。
そうだね、と義母は言った。

撮影参加は叶わなかったけれど、あの日、ライブ配信ASKAさんの姿を観ていた私は、来るべき日がとうとうやって来たのだとただ嬉しくて、氷結片手にはしゃぎながら観てたんだった。

でも翌日のインタビューや報道を観て、この出来事はASKAさんが色々なことをくぐり抜け、その結果の今でありMV撮影であったのだと思うと、あれはただ楽しいだけの時間じゃなかったんだなと、胸にじわりじわりと来るものがあった。

去年の夏にブログを初めて以来、ネットメディアを利用して次々に新しいことを成し遂げて来たASKAさん。もしもあの事件がなかったら、これらの出来事は同じように起きていたのだろうか。ピンチをチャンスに変えるという言葉があるけれど、これはチャンスのためのピンチだったのでは、という気さえしてしまう。

でもそれは、ASKAさんの情熱と才能と底力があってこそ、成し得たのだろうと思う。続けることを続ける、という困難を乗り越えるASKAさんの強さに、敬意を払わずにいられない気持ちになる。

そしてMV撮影を観て何より思ったのは、想いが最も伝わるのはやはり、語られる言葉よりも歌であり、歌う姿だということ。言葉はとても大きな力を持っているからその重みというのはもちろんダイレクトに伝わる。けれども歌という形の表現になった時、その形だからこそ浮き上がってくるメッセージというのがあって、それは生の言葉より、ずっと心の深いところに響く。

そのメッセージを感じるには、心をそこに向け、響き合える場所にいる必要がある。

そんな場所にいられたことにありがとうって、心から思った。

こうして私がやっと書いている間にも、ASKAさんは今日の顔で明日を迎え、いまを越えていっているのだなと思うと、なんだか私にもエネルギーが湧いて来た。

もう一回、新曲聴こうっと。

光と影

 

なんだか久しぶりに、ASKAさんの歌を聴いた。何故だかしばらく、違う音楽と本の世界に入り込んでしまって、聴くことがなかった。そんなに長い間ではなかったかもしれないけれど。

Too many peopleと、SCENE IIIを取り出した。ASKAさんのその言葉の深さと奥行きはどこから生まれるのかな、なんて考えながらワイシャツにアイロンをかけていた。


光のあるところには、必ず影がある。
影があるから、光が存在する。

だからきっと、

喜びを真に感じるには
悲しみを知ることが必要で、

本当の優しさを知るには
痛みを経験することが必要で、

目に見えるものを理解するには
見えないものにまで想いを馳せる必要がある。

 

光を知るには、深い闇をくぐり抜けなくてはならない。

対極にあるようで、やっぱり割り切れないものなんだろうなと思う。


一つを描いていても、そこには両方の景色が詰まっていることが、ASKAさんの歌から伝わってくるからなんだな。


そんなことを昼間考えていたら、夜になってMan and Womanが聴きたくなった。

ASKAさんの好きな曲はと聴かれたら、きっとこの曲を真っ先に挙げると思う。

でも、この曲の物事の対比が持つ意味を、私は今やっと分かりかけた気がした。

奥深く下っていったところで、普遍的なものに触れて、そこに流れる温かさをじんわりと感じることが出来る。でも形になると、とてもポップで大衆的でもある。

ASKAさんの歌の魅力なんだろうなと思う。

 

色んなことに後になって気付く私は、やっぱりぼんやりしていて、目に見える情熱を持っていなくて、熱心なリスナーではないのかもしれない。

 

それでも、

どんなことがあってもそばにいてくれる歌を歌ってくれるASKAさんに、私は深く感謝していて、

今日もありがとう。

物語の力

 

私はいつからか小説というものを読まなくなってしまって、気付けば、読む本といえばもっぱら、ビジネス書や自己啓発書のような実際的ものが多くなっていた。

大学生の時に、村上春樹に出会ってその小説の世界に魅了された。村上春樹を教えてくれたその時の彼が言っていたこと。「物事には白と黒だけがあるのではない。グレーだってあるんだ。」
何故か、この言葉を良く思い出す。白と黒しか見えていなかったあの時の私には、とても刺さる言葉だった。

 

今年に入ってふと、村上さんの言葉に触れてみたくなって、久々に手にとってみることにした。はじめに読んだのは小説ではなく、職業としての小説家というエッセイだった。

そこで村上さんは小説を書くことについて、とても「まわりくどい、手間のかかる作業」だと述べていた。メッセージをストレートに言語化すれば話が早いところを、わざわざ「物語」という形に置き換えて表現するのだと。

日々目まぐるしく情報が流れ、多くの判断を下し、物事をこなしていかなくてはならない中で、私達はつい、結論を手っ取り早く求めてしまうようになってしまったのかもしれないと思った。それには小説を読むよりも、直接的なメッセージが書いてある本を読んだほうが効率的だと思えてしまう。

物語を読んでそこからメッセージを汲み取り自分に取り入れていくという行為は、とても時間がかかる回り道のようで、そういうゆとりを私はきっと失くしてしまっていたのか、必要ないと思ってしまったんだと気付いた。


本当に久々に小説を読んでみた。色彩を持たない田崎つくると彼の巡礼の年。

読んでみて、今の私にとって必要なメッセージが、物語を通してありありと伝わって来たと感じた。小説のテーマがなんであるかは、実は私達に委ねられているのかもしれないと思った。

小説を読むということは、ある場合には、ディテールのひとつひとつが重要なのではなくて、物語に自分を置くことで浮き彫りになってくる感情を丁寧にすくい上げて、そこに潜む真理に気付いていくというプロセスの積み重ねなのだと思った。

そしてその真理というものは、そこを切り取って言葉にしてみたところで理解しうるものではなくて、物語をくぐる過程で、自分自身の深いところでその真理に触れられて、初めて分かるものなのだと思った。

それはきっと、ASKAさんが歌う「全ては自分」という意味を、ASKAさんの物語を私なりに体験することでやっと身体で分かったということに似ていると思った。

いろんな人が歌ってきたように。
この歌を聴いた当時、私はそのフレーズを分かっているようで、概念を理解は出来る、というところに留まっていたのだと思う。

ASKAさんの出来事に遭遇して、様々な感情や葛藤を認めて、考えることを繰り返し、それらをくぐり抜けてやっと、出来事をどう受け止めるか、自分にとってどんな意味があるのか、そしてこれからをどうしていくのか、全ては自分次第なんだということが分かった気がした。

 

何が正しくて何が間違っているかなんてきっと誰も分からなくて、答えもきっと誰も持っていない。結論を言葉として出してしまった途端、物事はそれ以上でもそれ以下でもなくなってしまう気がする。

どれだけ正しい結論を出すかではなくて、どこまで白と黒の間のグラデーションを見つめ、違いに気付けるか。遠回りに思えた道で、どんな景色を見ることが出来たか。そういうことを大切にしていきたいと思った。


村上さんは、小説家とは何かと聞かれたら、「多くを観察し、わずかしか判断を下さないことを生業とする人間」と答えると雑文集で読んだ。

もしかしたらASKAさんも、音楽家として同じことを思っているかもしれない。

Too many peopleを聴きながら、ASKAさんのいくつもの問いかけに想いを馳せて、答えのない答えのようなものについて考えていたら、なんとなくそんな気がした。