La La Land

 

「歩かなければ何も始まらない」

音楽と人を読んでから、ASKAさんのこの言葉がずっと頭の片隅にあって、それはじわりじわりと私の歩みにも影響してきているような気配がしていた。

そんな思いを抱く中、一足先に出張中の機内で観てきた夫に勧められて、映画「La La Land」を観に行った。ミュージカル、ジャズ、ピアノ。これはもう、すぐに行かなくっちゃ。

行く前日、泣ける映画かと夫に聞いたら、うーんそういうのではないよ、と言うので気楽に行ったのだけど。誰だそんなことを言ったのは、ティッシュを探すのが大変だったじゃない。

わずか2時間の間に、こんなに笑って泣いて、ワクワクして、何かを始めたくなるエネルギーをもらえるなんて、最高のエンタテインメントだ。

そして映画を観終わってみると、「歩かなければ何も始まらない」という言葉が、「歩けば何かが起こる。そしてそれはきっと、良いことに違いない」という風に私の中で置き換わっていったことに気付いた。

以前、雑誌のインタビューでASKAさんが発した「表現というものは、ポジティブであるべきだと思う」という言葉に私は深く共感して、その言葉を大切にしてきたのだけど、今改めて思った。

在りたいエネルギーを発し続けることで、自身は自ずとその方向に近付いていくし、そういう人や状況を引きつけていく。

だからやっぱり、思ったことしか起きないし、思っていないことは起きない。

そう思ったら、何だか急に、やりたいことがいっぱい出てきた。ミアがくるくると衣装を変えては歌って踊り出すように、私もお気に入りの洋服を着て、足を鳴らして街を歩きたくなった。セブが葛藤の中でも、自分の好きな古き良きジャズを追求する姿に、またジャズを聴きに行きたくなった。この俳優はわずか3ヶ月でピアノをマスターし、映画中の演奏も全て自身のものであると知り、私にも何だかものすごい力が湧いてきた。

久々に自分の観たい映画を映画館で観て、もう一つ思ったのは、やっぱり映画というものは、映画館で観ることで一番その芸術を味わえるように出来ているのだろうなということ。映画なら映画館のフィルムで、小説なら本という形で。

と考えると、音楽はどうだろう。CDは一つの完成された形なのだろうけど、生の音楽からでしか感じられない空気感や息づかい、気のやりとりや、その場所でしか起きない何かがある。音楽は詰まるところ振動であるから、その振動を生で受け止めるのが最高の味わい方なのかもしれない。

ASKAさんとその日を共有するのはまだ少し先だろうから、ASKAさんが準備運動をしている間、私はジャズを聴きに行こう。子供が小さいから夜出歩くのは夫だけだなんて誰が言ったの。誰も言ってなかった。
楽しいことは、何でもやりたい。

Album 「Too many people」

 

音楽を言葉にして表現するのはとても困難なことのような気がする。目に見えないものだから?そうかもしれない。でもそれに加えて、音楽はたやすく言葉にしてはならないような、神聖なものという気さえしてしまう。感動が大きいと、なおさらに。
 
私は音楽を語るのに十分な言語を持ち合わせていないから、Too many peopleを語るとなると考え込んでしまう。それに、まだ色んなことに、答えを出したくはない。とはいえASKAさんの放つ音楽は私にとって特別な振動となって共鳴するのは確かで、その気持ちを言葉にしておきたいとも思う。
 
このアルバムをポストで受け取った私は、意外にも冷静だった。するするとテープを開けて、歌詞カードを取り出してクレジットを見て、くすくすと笑った。
 
そうして何日かかけて曲を聴いて、このアルバムの置かれた境遇に想いを馳せてみると、一言では言い表せないような気持ちが込み上げてきた。アルバムをこうして手に出来たこと自体がなんだか奇跡みたいで、開けてみればそこにはASKAさんのたくさんの想いとくぐり抜けてきた景色が詰まっていて、ASKAさんを想う仲間たちがいて。全てを抱きしめて戻ってきてくれたASKAさんに、心からのおかえりなさいとありがとうを伝えたい気持ちになった。
 
そしてこの作品には、例えば村上春樹氏の言葉を借りるなら、「インターネットで「意見」があふれ返っている時代だからこそ、「物語」は余計に力を持たなくてはならない」というメッセージがとても当てはまる気がした。
 
温度の差なく並んだ意見たちはインスタントに使い回され、そのうちコピーしているのは文字なのか思考なのか分からなくなって、どれが借り物でどれが自分のものなのかの区別もつかなくなってしまう。そんな中に私たちは身を置いている。
 
でも、「Too many people」という物語はね。
ちっぽけな言葉の棘は歩けば落ちるように、桜の花は必ず散るように、 落ちるものは落ちて、物語が聴く人の心に深く染み込んでいき、 時間を超えて存在し続けていく。成長もする。 そういう力を持っているのだろうな。
ASKAさんだけがくぐり抜けた景色と想いが、ASKAさんの体温を持ってそこに流れている。それは可変できないもの。
 
そんなことを思いながらアルバムを聴いて、やっぱり時間に間に合わない僕にほっこりしたり、澄み渡る空のどこか、いつか、歌声を聴けるかなって思ってみたり、夕暮れに伸びる影に自分をはかってみたり。いろんな想いを抱きながら、ただ感じることに、身を委ねてみた。

 

このアルバムは私にとってまだ、気が置けない関係、というわけにはいかなくって、聴く時は少しの緊張とかしこまった雰囲気が漂う。何かをしていても、聴き流せるほどではなくて、だんだん居ずまいを正し、正面向いて身体で音を受け止める。どうしても、一緒に探したいものがある。
 

これだと思って決めた道を歩いていると、だんだん心細くなって引き返したくなったりする。違う道も歩いてみるけど、つまずいてすりむいて、これも違ったかもしれないと思ってしまう。
 
進むところが分からなくなって、たまに立ち止まって考える。

私は、私の約束を果たせているのだろうか。

忘れたままだと、どうなってしまうの。


気付かないことばかりで途方にくれてしまうけれど、それでも時々、席を譲ってくれる位の偶然のような出会いが、やっぱり約束だったのだろうと思える時がある。
 
歩いている時はそんな風に思えなくても、縁ある人を巻き込みながら、訪れる季節を抱きしめながら歩んだ道は、とても埃っぽくてとても揺れていたとしても、いつしか振り返ってみたら、きっとそれは円を描いているんだろうな。

 
一行ずつ、どうして涙がこぼれるの。

私は、約束を思い出せるのかな。

いつか、戻って来た時の私には、どんな景色が待っているのだろう。そこにASKAさんは、いてくれるのかな。
 
いつだって、分からないことだらけのまま朝を迎えてしまうけれど、この不自由さを、もうちょっと楽しんでみようかなと思わせてくれた物語に、どうもありがとう。

 

いつも温かな繋がりを感じさせてくれるASKAさんに、たくさんの感謝を込めて。

理由

時々、あの空に消えた飛行機のことを考える
星になったあの人達を想う

やりきれないほどの気持ちというものを想像してみる
どんなに上を向いてもこぼれてしまう涙のことを思い浮かべてみる

どうしようもない位受け入れ難いことにも
出口の見えない苦しみや孤独にも
理由があってほしい

前へ進むための、理由があってほしい
生まれ出ることと同じ位の不可欠が存在するのだと確かめたい

 

何もかもを知っている星空を見上げてみる

そうしたらね

きらきら瞬く光を見つめているだけで
どうして涙が出ちゃうんだろう

っていう位、分からなくなっちゃったよ

教えてってお願いしたのにね

でもずっと星を眺めていたら
朝を迎えることの理由は分かった気がしたよ

 

イメージ

友人から、レンタルしたBlu-rayが映らないので、試しに何でもいいからBlu-rayを貸してと言われた。

我が家で所有しているBlu-rayはこの方のものだけであります、と言って昭和が見ていたクリスマス!?を差し出した。

先日そのお家に行くと、「やっぱり映らなかったー。私もちょっとASKA観てみたかったよ」と無邪気な笑顔で彼女が言う。

そして、身を乗り出して続ける。

「ねえねえ、それでさ。ASKAの何が良くて好きになったの?曲?歌詞?声?それとも顔?どれ?」

えっ。そんなこと誰かに聞かれたのっていつ以来かしら、この空間でこの話題になるなんて想定外すぎるー。と思いながらも、

「ぜんぶー♡」

と答えたわけなんだけれども。

それから、彼女はスピッツが好きで、スピッツの歌詞もなかなか難しいという話になった。

すると彼女が唐突に言う。

「私ASKAの曲って全然知らないんだけどさー、なんかASKAの歌って、女の人と一晩過ごした次の朝、って感じがしちゃうんだよねー」

きゃー何それ‼︎ ていうか知ってる曲って3曲しか出てこなかったじゃん。チャゲアスと言えばモーニングムーンでしょ、に始まり、SAY YESは知ってる、あと辛うじて「今夜君のこと〜、ニャニャニャニャー」だったけど。

でもその割に、言わんとしていることは分かる気がするよ。

スピッツはね、もっと学生の恋愛みたいな、そういう清々しさがあるの」

えーそうなの!? でもそう言われると、聴き込んだことはないけど、少女とかレンゲ畑が出てきそうなイメージ。そうか、両方とも、言い得て妙かもね。

なんて言って大笑い。

その後は、一連の事件の話になった。これらの出来事に対して友人が持ったイメージは、およそ世間一般が抱いているそれと同じなんだろうなと思いながらうんうんと聞いていた。

でもね、そんな状況になっても、ASKAさんは世にむけて音楽を投げかける、それをする、っていうのが素晴らしいの、と、隣でハイハイって顔をしてる夫と、今にもソファで酔っ払って眠りに落ちそうな彼女の夫を横目に、熱弁を振るう私。

一度染み付いてしまったイメージを覆すのはきっと難しい。でも、歌はそこに見え隠れする作り手の生き様があってこそ響くものだとも思う。ASKAさんは、全てを携えて、新しい魅力として音楽に吹き込んだ。それに気付いた人達が、新たな聴き手となっていくんだろうな。

なんてことを翌日、娘とサーティワンでアイスクリームを頬張りながら考えていたのだけど。

どうしても、昨日のあの一言が可笑しくって思い出し笑いしてしまう。

夜、帰宅した夫に聞いた。

「ねえねえ、昨日のあの例え、どう思う?」

少しの間を置いて、夫はこう言った。

「そうだねぇ、確かに艶っぽいところがあるよね、ASKAさんは。スピッツは確かに清々しいんだよ。」

艶っぽい…

そうかぁ、それって、あれは褒め言葉だったってことね!

なんか楽しくなっちゃった。

みんな大好きありがとう。

それでも、今がいい。

そう思えることに、ありがとう。

700番 第二巻/第三巻

この本を読んで思ったことを改めて書いておこうと思い長々と綴ったのだけど、まるでお堅い論文のような体になってしまったので、やめることにした。

私がここに書き残しておきたいのは、ディテールを分析することでも批評することでもなくて、想い。やっぱり、それだけだ。

読み終えて感じたのは、私は、ASKAさんの真実を、ASKAさんの立場で感じることが出来たと思った、ということ。

一つだけ書き留めておこうと思うのは、ASKAさんがそこまでしてお茶を提出しようと思い行動し、そのことを本という形で表明した、その一連の出来事を改めて見渡してみて、思ったこと。

それは、1回目の逮捕時に疑問に感じていたことについて。当時、裁判をニュースで見ていて、私は彼女が何故そこまで無罪を主張するのかさっぱり理解出来なかった。ASKAさんが彼女に使ったことはないとするその矛盾も理解出来なかった。700番 第一巻をネットで読んでもその時の私には解を得られなかった。

でも今回の本を読んで、もしかしたらそこには、違う真実があったのかもしれないと思えた。そうしたら、ASKAさんの行動と理由はとても納得がいく。

そうなのかなと思ったら、私もちょっと救われた気がしてきた。ずっと奥底にあって、蓋をしていたわだかまりが解けたような、そういう気がしたから。

信じることが楽さ、なのかな。

私は、ASKAさんが大切にするものを、ASKAさんの真実を、大切にしたい。という気持ち。

だってASKAさんは、私にとって大切な人だから。

分かることの出来る距離を作ってくれて、ありがとう。


ネクタイ姿が変わらず素敵なASKAさん。

お誕生日おめでとうございます。

たくさんの祝福が、ずっと続いていきますように。

音楽と記憶

 

「君の知らない君の歌」を妊娠中に聴いたことをとても後悔していた。ひどいつわりで、その時にリリースされたこのアルバムを、せめてもの気分転換にと思って聴いていたのだと思う。

出産後、何気なくこのCDをかけたら、1曲目のイントロを聴いているうちに、説明のつかない吐き気というか、波のようなものがやって来て、あのつわりだ、と気付いた。

だから二人目の時は、音楽を聴かないことにしていた。君の知らない君の歌は、5年以上経ってやっと聴けるようになった。音楽と記憶というのは思っているよりも強固らしい。


そんなわけで、Too many peopleが届いていざ聴くとなった時、気がかりな曲があった。

Be Free

この曲を、私はどう聴くことになるのだろう。

3年前にこの曲を初めて聴いた時、私は何かとても重大な告白をされたような気がして、重苦しい気持ちになった。

それから間もなくの事件。

連日、テレビでこの曲が流れているのを、呆然と眺めていた気がする。

それ以来、一度も聴くことはなかったし、手に取る勇気もなかった。

でも先日YouTubeで新曲を聴いていたら、自動再生機能でこの曲が流れてしまった。イントロがないから、すぐに歌が聞こえて来る。一瞬で色んなことが、感情が、フラッシュバックしてきて、耐えられなくて止めてしまった。

 

そして昨日。深呼吸をしてから、この曲を聴いてみた。

涙しか出てこないよー。

私、何に泣いているんだろう?

やっぱり、思い出してしまう。あの時のこと。あの出来事は、やっぱり辛かったな。今はすっかり平気なはずなんだけどね。あの時は、泣けて泣けて仕方なかったな。ASKAさんは、あの時、どんな気持ちでこの曲を作ったんだろうな。私達に、何を伝えたかったんだろうな。

涙の理由を問うことをやめてみたら、色んな想いがあふれてきた。

こんなことになってしまったのは、きっと、そうならなければならなかったんだろうけど、ASKAさんは一体どんな荷物を背負っていたんだろう。私も、そこにいることになっていたのかな。私にとっては、どんな意味があるんだろう。結構こたえたけど、そうか、ASKAさんはもっと涙を流してるよね。

こんなに痛い思いをしないといけないなんて、過酷だな。そうまでしないとならないものがあるなんて。ASKAさんは、ASKAさんは、大丈夫なんだろうか。

 


あれから3年近く経ったんだ。

どうやってここを切り抜けた?

ASKAさんが私に明日があることを教えてくれた。

不思議なことも、あるね。

生まれるということ

 

街で小さな赤ちゃんを見かけた。
きっとまだ生まれて数ヶ月の、首も座っていない赤ちゃん。

その愛くるしさに胸がきゅんとしながらちっちゃな赤ちゃんを見つめていたら、ごく自然に、おかえり、という気持ちが沸いた。また生まれてきてくれてありがとう、と。

人の一生で、生まれてくることほど大変なことはないんじゃないかと私は思う。いくつもの奇跡を経て身体を持ち、いざ外の世界へ出てくる時の苦しみと言ったら。

相当な難産でなかなか出てこられなかった娘がやっと生まれた時、私も辛かったけれど、出てくる本人はきっとそれ以上に大変な思いをしたのだろうと思った。「生まれる時頭をつかまれて痛かった。だから生まれた時頭ボッサボサだったでしょ?」なんて娘は言っていたけれど。

そうして生まれたらしばらくは、身体の自由も言葉の自由もないまま、生きることの全てを周りの人に委ねなくてはならない。お腹が空いたと泣いても、抱いて欲しいと叫んでも、母親がすぐに来てくれるとは限らない。動けるようになったら今度は、親の不注意で高いところから落ちて痛い思いをしたり、理不尽に叱られたり、散々な目にあうかもしれない。娘のように。

身体を持たない安らぎの中で過ごして来て、また肉体を持ってこの世に降りてくるというのは、どんな心境だろう。

重い身体をまとって、また痛みや孤独や絶望を味わうかもしれないのに、肉体を持つが故の苦しみを経験するかもしれないのに、それでも生まれることを私達は選択してきた。

そう思うと、目の前にいる我が子や小さな赤ちゃん達は、強い勇気を持って、意を決して生まれてきてくれたんだなと思わずにはいられない。深い尊敬の念さえ抱いてしまう。ついこの間までは、身体を持たない魂として私達を見守ってくれる存在だったのに。

そんな可愛い子供達だって、いつか、深い痛みや、やりきれない孤独と絶望を知る時が来るかもしれないと思うと胸が苦しくなる。

そうなった時に、何がしてあげられるのだろうと思ったら、

人はやっぱり、愛の力で歩いていけるんだろうなって思った。

私達は、愛を知るために、生まれてきた。

近くの人にも、遠くの人にも、ASKAさんにも、想っていれば、きっと届くから。

全てが、上手くいきますように。

いつの日か生まれて来る私達が、
もっと愛に近づけますように。