音楽と記憶
「君の知らない君の歌」を妊娠中に聴いたことをとても後悔していた。ひどいつわりで、その時にリリースされたこのアルバムを、せめてもの気分転換にと思って聴いていたのだと思う。
出産後、何気なくこのCDをかけたら、1曲目のイントロを聴いているうちに、説明のつかない吐き気というか、波のようなものがやって来て、あのつわりだ、と気付いた。
だから二人目の時は、音楽を聴かないことにしていた。君の知らない君の歌は、5年以上経ってやっと聴けるようになった。音楽と記憶というのは思っているよりも強固らしい。
そんなわけで、Too many peopleが届いていざ聴くとなった時、気がかりな曲があった。
Be Free
この曲を、私はどう聴くことになるのだろう。
3年前にこの曲を初めて聴いた時、私は何かとても重大な告白をされたような気がして、重苦しい気持ちになった。
それから間もなくの事件。
連日、テレビでこの曲が流れているのを、呆然と眺めていた気がする。
それ以来、一度も聴くことはなかったし、手に取る勇気もなかった。
でも先日YouTubeで新曲を聴いていたら、自動再生機能でこの曲が流れてしまった。イントロがないから、すぐに歌が聞こえて来る。一瞬で色んなことが、感情が、フラッシュバックしてきて、耐えられなくて止めてしまった。
そして昨日。深呼吸をしてから、この曲を聴いてみた。
涙しか出てこないよー。
私、何に泣いているんだろう?
やっぱり、思い出してしまう。あの時のこと。あの出来事は、やっぱり辛かったな。今はすっかり平気なはずなんだけどね。あの時は、泣けて泣けて仕方なかったな。ASKAさんは、あの時、どんな気持ちでこの曲を作ったんだろうな。私達に、何を伝えたかったんだろうな。
涙の理由を問うことをやめてみたら、色んな想いがあふれてきた。
こんなことになってしまったのは、きっと、そうならなければならなかったんだろうけど、ASKAさんは一体どんな荷物を背負っていたんだろう。私も、そこにいることになっていたのかな。私にとっては、どんな意味があるんだろう。結構こたえたけど、そうか、ASKAさんはもっと涙を流してるよね。
こんなに痛い思いをしないといけないなんて、過酷だな。そうまでしないとならないものがあるなんて。ASKAさんは、ASKAさんは、大丈夫なんだろうか。
あれから3年近く経ったんだ。
どうやってここを切り抜けた?
ASKAさんが私に明日があることを教えてくれた。
不思議なことも、あるね。
生まれるということ
街で小さな赤ちゃんを見かけた。
きっとまだ生まれて数ヶ月の、首も座っていない赤ちゃん。
その愛くるしさに胸がきゅんとしながらちっちゃな赤ちゃんを見つめていたら、ごく自然に、おかえり、という気持ちが沸いた。また生まれてきてくれてありがとう、と。
人の一生で、生まれてくることほど大変なことはないんじゃないかと私は思う。いくつもの奇跡を経て身体を持ち、いざ外の世界へ出てくる時の苦しみと言ったら。
相当な難産でなかなか出てこられなかった娘がやっと生まれた時、私も辛かったけれど、出てくる本人はきっとそれ以上に大変な思いをしたのだろうと思った。「生まれる時頭をつかまれて痛かった。だから生まれた時頭ボッサボサだったでしょ?」なんて娘は言っていたけれど。
そうして生まれたらしばらくは、身体の自由も言葉の自由もないまま、生きることの全てを周りの人に委ねなくてはならない。お腹が空いたと泣いても、抱いて欲しいと叫んでも、母親がすぐに来てくれるとは限らない。動けるようになったら今度は、親の不注意で高いところから落ちて痛い思いをしたり、理不尽に叱られたり、散々な目にあうかもしれない。娘のように。
身体を持たない安らぎの中で過ごして来て、また肉体を持ってこの世に降りてくるというのは、どんな心境だろう。
重い身体をまとって、また痛みや孤独や絶望を味わうかもしれないのに、肉体を持つが故の苦しみを経験するかもしれないのに、それでも生まれることを私達は選択してきた。
そう思うと、目の前にいる我が子や小さな赤ちゃん達は、強い勇気を持って、意を決して生まれてきてくれたんだなと思わずにはいられない。深い尊敬の念さえ抱いてしまう。ついこの間までは、身体を持たない魂として私達を見守ってくれる存在だったのに。
そんな可愛い子供達だって、いつか、深い痛みや、やりきれない孤独と絶望を知る時が来るかもしれないと思うと胸が苦しくなる。
そうなった時に、何がしてあげられるのだろうと思ったら、
人はやっぱり、愛の力で歩いていけるんだろうなって思った。
私達は、愛を知るために、生まれてきた。
近くの人にも、遠くの人にも、ASKAさんにも、想っていれば、きっと届くから。
全てが、上手くいきますように。
いつの日か生まれて来る私達が、
もっと愛に近づけますように。
伝わってきたこと
朝はここ数年ずっとテレビ朝日な我が家だけど、今朝は久々に、めざましテレビを観てみることにした。
テレビをつけるとちょうどASKAさんのニュースをやっていて、昨日の放送を福岡で観た人30人に、尿とお茶をすり替えた理由について納得できるかとアンケートしたところ、納得出来ると回答したのは1割だった、と紹介していた。
そんなに少ないんだ、へぇー、とちょっと驚いた。でも考えてみれば一緒にいる夫だって、色々なことが腑に落ちていない様子だし、このことについて話をした人も、そんな感じだった。世間の反応は、それが普通なのかなと思った。
確かに、これまでを振り返ると、結果的に本当ではないこともあったし、それを裏切りと取る人もいたと思う。信じるかと迫られたら、本当のところは誰にも分からない。
でも私は、分からないことは知らなくてもいいと思う。それよりも、これは間違いなく本物だと伝わってくるものを大切にしたい。ASKAさんの後悔の気持ち、全てを必要なことだったと受け入れ前を向いて歩き出している姿、失うことのない音楽への情熱。昨日のASKAさんの姿に、私はこれらを確かに感じ取った。それだけで、充分だと思った。
と書いて、夫の所感にそうだよねぇと言っていた自分とのバランスを取ってみる。書くということは、自分と自分をとりまく物事との距離を確かめること。本当にそうだな。
ASKAさんもきっと、距離感を確かめながら、少しずつ前へ進んでいくのだろうな。
ASKAさんの想いが、歌が、伝わっていきますように。
ASKA CONCERT TOUR 2009 WALK
過去のライブDVD、何があったかなと取り出して眺めていて、気付いたことがあった。
どのライブをどこの会場で観て、どんなエピソードがあったかをすらすら思い出せるのに、WALKツアーだけは、全く記憶がない。DVDも、ほとんど観たことがなかった。なんでだろう。
気になってチケットを探してみたら、大宮、仙台、NHKホール2回と、4公演も参加していた。仙台まで行ってたなんて、全く思い出せなかったし、シューティングライブにも参加していたなんて、すっかり忘れていた。
何故4回も行ったのだろうとしばし考え、そうだ、このツアーは解散報道からの無期限活動休止を発表した後のツアーだったから、ASKAさんがどんな言葉を発するのか、ただならぬ関心があったんだという解に至り、
いざ行ってみたら、ASKAさんは「アイツが全部悪いんです」なんておちゃらけてたんだった。喋りが絶好調で、これはDVDに一体どう収録されるのかしらと思っていたらバッサリ切られていて、残念なの半分、まぁそれもそうだよねと思ったの半分だったことを思い出した。
でも肝心のライブのことを、ちっとも思い出せないので、久々に観てみることにした。
観ているうちに、そうだこの曲の前にキックス君が出てきたなとか、帰宅のエピソードを聴いて、この曲が大好きになったんだった、と記憶が蘇ってきた。
そうして後半、ASKAさんがだんだん声を振り絞るように歌っている姿に、見ている私まで、呼吸が浅くなってきた。
そうだった。私はここで、祈るような気持ちで、心の中で声援を送り続けていたんだった。たくさんのお客さんと一緒に。
そこには、何も寄せ付けない気迫と魂だけが存在しているようだった。でも、澤近さんがASKAさんに送る眼差しにはいつも以上に気持ちが込められている気がしたし、メンバーの熱い演奏から、ASKAさんへの気がこれでもかというくらい伝わってくる気がした。
パフォーマンスとしては不本意だったかもしれない。けれどここに確かに流れていたであろう気や念というものを想像すると、本当、また泣けてしまう。
色んなところをくぐりぬけて来たんだなぁ。ASKAさんも、私達も。
それぞれの人にとっての様々な想いや苦悩があって、それは時に姿かたちを変えて心を曇らせることがあったかもしれない。でもそれらを経て、今また共有出来る景色があるというのは、幸せなことだなと思う。
クロスワンって、言ってみようかな。
なんて、ライブ後の余韻に浸りながら思ってみたりした。
緊張と解放
朝から、月が近付けば少しはましだろうを何度も聴いていたら、何だか切ない気持ち満載になって、Man and Womanが無性に恋しくなってしまった。
久々にDOUBLEのPVを取り出して観て聴いて、もうその安堵感にものすごい泣けた。どんな感情に苛まれたとしても、この曲が全てを包み込んでくれる気がする。本当、私はこの曲を空まで持っていきたい。
何故か朝から号泣してしまったけど、慣れない場所に預けられた子供が不安な時間を過ごしていたところに、戻ってきた母親の顔が目に入って、思わずうわーーんって泣いちゃう感じ。その子供の気持ちが、良く分かった気がした。
音楽は緊張と解放。
そうか、これもそういうことなんだ。
この変化に、感情が揺さぶられるんだ。
見回してみると、色々なことにこの対比がある。スポーツも、思考や表現も、人生も。
緊張と解放を、いかに効果的にちりばめて、なおかつ自然に成り立たせるか。その解放を味わうために、何度も体験したくなるか。
というプロフェッショナルなんだな、ASKAさんは。
気付くと期待が高まっていて、でもその期待はなかなか達成されなくて、待って待って、最後にやっと満たされる。
アルバムを手にする時の安堵感はどのくらいだろう。
PRIDE
ずっと気になっていた昔の会報のASKAさんのコメントがあって、探してみた。2007年の会報だった。
その記事では、何故PRIDEのような曲が、女性にも支持されるのかということについて、ASKAさんが推測していた。一つは、女性もこの曲に出て来る気持ちを持っているだろうということ。もう一つは、女性には、自分の愛する人や身内をそばで見ている感覚があるからということ。
このコメントの後に、「このASKAの言葉を読んで、大きく頷いている女性がたくさんいることだろう。」
と綴られているのだけど、私はここを読んだ時、大きく首を傾げていたんだよなぁ。
確かにそういう側面もあるかもしれないけれど、私にとっては、本当に共感しているのはそこではないような。でもそれは一体何だろう?
時折思い出しては、ぼんやり考えながら歌を聴いていたのだけど、そうか、それからもう10年近く経っていたんだ。少しぼんやりしすぎたかな。
PRIDEも、月が近付けば少しはましだろうも、ライブで聴くと、その迫力と魂の込もった歌唱にただただ圧倒されて涙が出てしまう。その瞬間には、自分の体験や身近な人への想いはない、と思う。
なんだろうなぁ、と考えてみる。
そうすると、出て来るのは、やっぱり、
ASKAさんの、伝えられなかった事たちは、どんな悲しみをもたらしたのだろう。
とか、
拭きとれるはずの言葉たちは、行き場を失くしてどこへいってしまったのだろう。
沈黙の裏には、どれだけの涙の跡があるのだろう。
ということ。
一人歩きする誤解は、どこまでひとりで受け入れらるのだろう。
伝わらない想いを前に、どれほどの痛みを感じるのだろう。
やりきれないほどの孤独は、どの位ひとりで抱えきれるのだろう。
歌にすることで、歌うことで、ASKAさんは、その苦しみを少しばかり浄化出来るのだろうか。
そうであってほしい。
この追体験と、祈りの気持ちが、共鳴に繋がってゆく。
そんな気がしてきた。
祈りが、届きますように。
シンフォニックコンサート
good timeが好きすぎて、過去のLive DVDのこの曲だけを順番に観ていった。
GOOD TIMEツアー、My Game Is ASKA、シンフォニック、WALK とほぼ毎回歌われていて、ASKAさんにとって大切な一曲なんだなと今更ながらに実感すると同時に、何故今までこの曲の素晴らしさに気付かなかったのだろうと思う。
聴けば聴くほど、この曲はラブソングを超越しているなと思う。でも何がそう感じさせるのだろう。普遍的な、何か。そして美しく隅々まで目が行き届いているような感触が伝わってくる。
各ツアーのgood timeを順番に聴いていくと、楽器やアレンジの違いで印象が随分違う。なかでも、シンフォニックでのパフォーマンスが素晴らしすぎて泣けちゃう。
オーケストラもASKAさんのボーカルも、とても美しく、お互いを見事に引き立て合っている。ASKAさんは本当に気持ち良さそうに歌っているな。そして木管楽器ってこんなに哀愁漂う音色を出すんだな。
SYMPHONIC CONCERT TOUR 2008、久々に観て感動して結局全部観てしまった。
年代もバックグラウンドも様々な人達が、一つのところに向かってASKAさんの音楽を奏でている。そこにはどんな想念が生まれていたのだろう。
このツアー、東京公演は平日で行けなかったので、はるばる真駒内まで行ったんだった。2008年の11月。よく行ったなぁ。
この日、アンコールの時だったか、ASKAさんが突然、
「時間がないっ」
と言って巻きモードに入り、えっ?と驚いた。夫と二人、「じ、時間がないって…?!」と顔を見合わせた。
見知らぬ土地でほんの少し心細くなった、真駒内での思い出。今でも私達の語り草。
2005年のシンフォニックは、国際フォーラムで参加して、これも素晴らしかった。この会場、とても好き。ASKAさんの緊張感が伝わってきたなぁ。
このコンサートの時に、5,000円のASKAさん特大ポスターを買ったものの、巨大過ぎて貼る場所がなくて、たまに取り出してきゃー♡なんて言ってたような。あれ、みんなどうしたんだろう。