25年分のラブレター

ASKAさんへの想いや思い出を綴るブログ

MV撮影

 

8月の下旬、夫の実家を訪ねた。
先に帰省していた夫から話を聞いていた義母が真っ先に尋ねて来たのは、ASKAさんのMV撮影のことだった。義母の中でいつの間にか、私はあの事件以来ASKAさんのファンをやめたことになっていたらしく、私が撮影に申し込んでいたことにとても驚いていた。

義母は撮影の報道を割と熱心に見ていたようで、こう続けた。「みんなごめん、って一言言ってたけど、あれだけじゃ納得出来ないんじゃない」

そうか、なるほどそういう受け止め方はもしかしたらめずらしくはないのかもしれない。そう思いながら、こう伝えた。私には気持ちは十分伝わって来たこと。何をやっても悪く言う人もいれば応援する人もいる。私は応援している、ということ。
そうだね、と義母は言った。

撮影参加は叶わなかったけれど、あの日、ライブ配信ASKAさんの姿を観ていた私は、来るべき日がとうとうやって来たのだとただ嬉しくて、氷結片手にはしゃぎながら観てたんだった。

でも翌日のインタビューや報道を観て、この出来事はASKAさんが色々なことをくぐり抜け、その結果の今でありMV撮影であったのだと思うと、あれはただ楽しいだけの時間じゃなかったんだなと、胸にじわりじわりと来るものがあった。

去年の夏にブログを初めて以来、ネットメディアを利用して次々に新しいことを成し遂げて来たASKAさん。もしもあの事件がなかったら、これらの出来事は同じように起きていたのだろうか。ピンチをチャンスに変えるという言葉があるけれど、これはチャンスのためのピンチだったのでは、という気さえしてしまう。

でもそれは、ASKAさんの情熱と才能と底力があってこそ、成し得たのだろうと思う。続けることを続ける、という困難を乗り越えるASKAさんの強さに、敬意を払わずにいられない気持ちになる。

そしてMV撮影を観て何より思ったのは、想いが最も伝わるのはやはり、語られる言葉よりも歌であり、歌う姿だということ。言葉はとても大きな力を持っているからその重みというのはもちろんダイレクトに伝わる。けれども歌という形の表現になった時、その形だからこそ浮き上がってくるメッセージというのがあって、それは生の言葉より、ずっと心の深いところに響く。

そのメッセージを感じるには、心をそこに向け、響き合える場所にいる必要がある。

そんな場所にいられたことにありがとうって、心から思った。

こうして私がやっと書いている間にも、ASKAさんは今日の顔で明日を迎え、いまを越えていっているのだなと思うと、なんだか私にもエネルギーが湧いて来た。

もう一回、新曲聴こうっと。

光と影

 

なんだか久しぶりに、ASKAさんの歌を聴いた。何故だかしばらく、違う音楽と本の世界に入り込んでしまって、聴くことがなかった。そんなに長い間ではなかったかもしれないけれど。

Too many peopleと、SCENE IIIを取り出した。ASKAさんのその言葉の深さと奥行きはどこから生まれるのかな、なんて考えながらワイシャツにアイロンをかけていた。


光のあるところには、必ず影がある。
影があるから、光が存在する。

だからきっと、

喜びを真に感じるには
悲しみを知ることが必要で、

本当の優しさを知るには
痛みを経験することが必要で、

目に見えるものを理解するには
見えないものにまで想いを馳せる必要がある。

 

光を知るには、深い闇をくぐり抜けなくてはならない。

対極にあるようで、やっぱり割り切れないものなんだろうなと思う。


一つを描いていても、そこには両方の景色が詰まっていることが、ASKAさんの歌から伝わってくるからなんだな。


そんなことを昼間考えていたら、夜になってMan and Womanが聴きたくなった。

ASKAさんの好きな曲はと聴かれたら、きっとこの曲を真っ先に挙げると思う。

でも、この曲の物事の対比が持つ意味を、私は今やっと分かりかけた気がした。

奥深く下っていったところで、普遍的なものに触れて、そこに流れる温かさをじんわりと感じることが出来る。でも形になると、とてもポップで大衆的でもある。

ASKAさんの歌の魅力なんだろうなと思う。

 

色んなことに後になって気付く私は、やっぱりぼんやりしていて、目に見える情熱を持っていなくて、熱心なリスナーではないのかもしれない。

 

それでも、

どんなことがあってもそばにいてくれる歌を歌ってくれるASKAさんに、私は深く感謝していて、

今日もありがとう。

物語の力

 

私はいつからか小説というものを読まなくなってしまって、気付けば、読む本といえばもっぱら、ビジネス書や自己啓発書のような実際的ものが多くなっていた。

大学生の時に、村上春樹に出会ってその小説の世界に魅了された。村上春樹を教えてくれたその時の彼が言っていたこと。「物事には白と黒だけがあるのではない。グレーだってあるんだ。」
何故か、この言葉を良く思い出す。白と黒しか見えていなかったあの時の私には、とても刺さる言葉だった。

 

今年に入ってふと、村上さんの言葉に触れてみたくなって、久々に手にとってみることにした。はじめに読んだのは小説ではなく、職業としての小説家というエッセイだった。

そこで村上さんは小説を書くことについて、とても「まわりくどい、手間のかかる作業」だと述べていた。メッセージをストレートに言語化すれば話が早いところを、わざわざ「物語」という形に置き換えて表現するのだと。

日々目まぐるしく情報が流れ、多くの判断を下し、物事をこなしていかなくてはならない中で、私達はつい、結論を手っ取り早く求めてしまうようになってしまったのかもしれないと思った。それには小説を読むよりも、直接的なメッセージが書いてある本を読んだほうが効率的だと思えてしまう。

物語を読んでそこからメッセージを汲み取り自分に取り入れていくという行為は、とても時間がかかる回り道のようで、そういうゆとりを私はきっと失くしてしまっていたのか、必要ないと思ってしまったんだと気付いた。


本当に久々に小説を読んでみた。色彩を持たない田崎つくると彼の巡礼の年。

読んでみて、今の私にとって必要なメッセージが、物語を通してありありと伝わって来たと感じた。小説のテーマがなんであるかは、実は私達に委ねられているのかもしれないと思った。

小説を読むということは、ある場合には、ディテールのひとつひとつが重要なのではなくて、物語に自分を置くことで浮き彫りになってくる感情を丁寧にすくい上げて、そこに潜む真理に気付いていくというプロセスの積み重ねなのだと思った。

そしてその真理というものは、そこを切り取って言葉にしてみたところで理解しうるものではなくて、物語をくぐる過程で、自分自身の深いところでその真理に触れられて、初めて分かるものなのだと思った。

それはきっと、ASKAさんが歌う「全ては自分」という意味を、ASKAさんの物語を私なりに体験することでやっと身体で分かったということに似ていると思った。

いろんな人が歌ってきたように。
この歌を聴いた当時、私はそのフレーズを分かっているようで、概念を理解は出来る、というところに留まっていたのだと思う。

ASKAさんの出来事に遭遇して、様々な感情や葛藤を認めて、考えることを繰り返し、それらをくぐり抜けてやっと、出来事をどう受け止めるか、自分にとってどんな意味があるのか、そしてこれからをどうしていくのか、全ては自分次第なんだということが分かった気がした。

 

何が正しくて何が間違っているかなんてきっと誰も分からなくて、答えもきっと誰も持っていない。結論を言葉として出してしまった途端、物事はそれ以上でもそれ以下でもなくなってしまう気がする。

どれだけ正しい結論を出すかではなくて、どこまで白と黒の間のグラデーションを見つめ、違いに気付けるか。遠回りに思えた道で、どんな景色を見ることが出来たか。そういうことを大切にしていきたいと思った。


村上さんは、小説家とは何かと聞かれたら、「多くを観察し、わずかしか判断を下さないことを生業とする人間」と答えると雑文集で読んだ。

もしかしたらASKAさんも、音楽家として同じことを思っているかもしれない。

Too many peopleを聴きながら、ASKAさんのいくつもの問いかけに想いを馳せて、答えのない答えのようなものについて考えていたら、なんとなくそんな気がした。

好きなものを、好きと言ってみる

 

私のウクレレは、何年も仕舞われたまま使われることがなくて、一昨年のある時取り出してみたら、購入年が2005年と書いてあった。

今となっては思い出せないけど、きっと、CHAGEさんASKAさんが同じ時期に偶然ウクレレを買っていたというのを会報で読んで、ようし私もと買ったに違いない。

でもコードをどうやっておさえて音を出すのか、本を見ても全然分からなくて、何度か体験レッスンに行ってみたけれどグループレッスンでは弾けそうになくて、結局自分で単音を覚えて、メロディーだけ弾くことをしていた。そしてそのうち、取り出すこともなくなってしまった。

月日が流れて昨年、娘が通う音楽教室に新しくウクレレの個人レッスンがスタートした時、私はとうとうその時が来たのだと思って、通うことにした。

とても素敵な透き通った声で歌う女の先生は、シンガーソングライターとしても活動されていると、しばらくして知った。

先日のレッスンで、先生が次はどんな曲をやりたいかと聴いてくれた。先生がライブで歌ったという蘇州夜曲をやりたいと私は言った。そして、蘇州夜曲は色々な人が歌っているという話になって、「誰が歌う蘇州夜曲が好きなんですか」と先生に聞かれた。

思わず「えーっ。」と言ってしまった。
えーと、えーと。
「特に誰のが好きっていうのはないですか?」
「いえ、あります。」
「誰ですかー。」笑顔いっぱいで先生が聞く。

「えーと、あの、チャゲアスの、ASKAさんなんですけど、、」

「あー、ASKAさん。ASKAさんと言うと…色々あった方のASKAさんですね」

「そうなんです、色々あった方の。でも、ずっと好きで…」

 

好きだと表明したときに、私はどんなものを背負うことになるのだろうと考えることがあった。

それを聞く人が、どれだけのことを知っていて、どれだけの誤解が含まれている可能性があって、どれだけ心を向けたことがあって、そこにはどんな感情があるのだろう。

"色々あった"の中に含まれる色々を考えると、何だか気が重くなって、ためらってしまう。

私は、このブログに言葉を綴って自分の気持ちを深く知るほど、表に出すものとのバランスが取れなくなっていっているような気がしていた。何か大切なことを、隠しているような気がしてしまうような。

だから、誰が歌う蘇州夜曲が好きかという他愛のない質問に、私は言い淀んでしまった。そういう時はどうすればいいのだろうって、考えてしまう自分がいた。

 

でも先生の反応は意外だった。

ASKAさんて本当に歌が上手いから、もう本当に、頑張ってほしい」

なんの曇りもない心からの言葉だった。

涙が出そうな位嬉しくて、思わず聞き返してしまった。伝えて良かったと思った。


家に帰り、先生の言葉をまた思い出して、考えていた。

その言葉はASKAさんに向けられたものであったけれど、同時に私に向けて、それでいいんだという力強いメッセージが発せられたものでもある気がした。


伝えた時に、初めて出会える景色や言葉がある。

もし伝わらなかったとしても、伝えることに、意味はあるかもしれない。

好きなものを、好きと言う時は、
私が、どんな嘘も真実も痛みも優しさも抱きしめていくという時なんだ。

誰もがくぐる季節を、私も通り抜けて行こう。

そんなことを、決めた日になった。

時間は消えていく、ここから先は

 

ちょっと前、何気なくテレビを観ていたら、吉田拓郎さんが映っていた。もう70歳になったんだと思いながら見ていたら、こんなことを言っていた。

「いろんなことが、いろんな意味で最終章に向かいつつある。」

そして音楽も含め色々考えるところがあるけれど、「人生の最終章はラジオで締めくくりたい」と。ラジオの発表会見のニュースだった。

最終章、という言葉にどきりとした。

思わず友人に連絡した。長年の拓郎さんファンの友人。

「今朝テレビで拓郎さん観たよ。最終章を考える時期にきただって、なんかしんみりしちゃったよ」

そうして返って来た返事は、
「本当しんみりしちゃうね。ハワイで拓郎さんに会えたのは、Romiちゃんのおかげ」

そうそうハワイで拓郎さんに念願叶って会えてたよね。でも私何したっけ?思い出せないな。じゃあ会って話そうー。

 

その友人は、ハワイの高校時代の友人で、私達は学校が終わると、アラモアナやワイキキをぷらぷらしては、行くところないねなんて言って、ベンチに腰掛けてモミティーを飲んでいた。時々ボディーボードに出かけると、波に乗り損ねてぐるぐるの渦に飲み込まれ、這い上がってはこりずに次の波を待った。彼女の家に泊まると、夜更けまでMTVを観ながらとりとめのない話をして過ごした。

卒業するとお互いハワイを離れて違う大学に行き、住む場所もずっと違って、数年に一度会うくらいだったけれど、どういうわけか今、お互いの配偶者の転勤で、車で10分ちょっとのところに住んでいる。


この日の私達は、昼間からビール片手に話が尽きなかった。拓郎さんと言えば、チャゲアスLOVE LOVE あいしてるに出た時の、あれ面白かったよねと私が言うと、あのキャッチフレーズ、なんだったっけと友人が続く。チャゲアスが「九州から大型台風上陸」。そして拓郎さんは「荒れ果てた荒野に太いホースで水をまく」。

そうそれ!意味分かんないよね!あれ可笑しかったよねー。あぁお腹がよじれそう。いつかの話で私達はまた大笑いした。それから拓郎さんは、CHAGE & ASKAの名前の由来が気になって聞き出そうとするのだけど、二人ははぐらかして、それでも諦めずに突っ込んでたんだよね。

あ、でもさ、この話はしてなかったよね。会報に書いてあったその後の話。収録の後、拓郎さんが二人をすごいまずい焼肉屋に連れて行って、肉をどんどん焼いて「食え食え」ってくれるから、「拓郎さんも食べてください」ってASKAさんが言ったら、「まずいから俺はいい」って言ったって。

CHAGEちゃんが思わず「まずい」って言ったら「そんなにここの肉はまずいですか?」って大声で言うんだって拓郎さん。面白すぎるわー。

「でもASKAさんは、拓郎さんが大好きになったって言ってたよ。そんなまずい肉を食べさせられても好きになっちゃう魅力があるの?」

「そうそう。そうなのよ」

拓郎さんのどこが好きなの?って聞いたら彼女は「声が好き」と即答した。

声が好きなんだー、そうなんだ。声って大事だよね。私も好き。ASKAさんの声。


それで私、あの時何したんだっけと聞いたら、拓郎さん達が番組の収録でハワイに来ることと、収録するホテル名が雑誌に書いてあって、それを見た私が友人に伝えて、その情報のおかげで会えたということだった。そうか、そんなことあったね。

でもホテル名まで書いてあるなんてすごいことだよね、今思えば。なんて話をしながら、その時のことをもう一度聞いた。

 

今から20年位前のその日、友人は学校が終わるとそのホテルに向かい、プレゼントと手紙を持って裏口で待っていた。しばらく待っていると、とうとう拓郎さんがやってきた。その前にはなんと、Kinki Kidsの二人も歩いている。しかし友人は二人には目もくれず、「拓郎さーん!!」と駆け寄って声をかけた。

うら若き女子高生が、国民的アイドルを目の前にして、彼らをすり抜け拓郎さん目がけて走っていくって、想像しただけで笑える。ぐふふふ。私、剛くん結構好きだったけどね。で、で、どうなったの。

「ずっとファンだったんですー!と言ってプレゼントと手紙を渡したら、気さくに話してくれたよ」

大物のオーラはあった?と聞いたら、そんなことはなくて、意外に普通だったと。「本当の大物ほど普通で気さくなんだと思ったよ」
と言った。へーそうなんだね。想像してしまう私。ASKAさんをだけど。

会えただけでもすごいことなのに、拓郎さんはその場で番組のテレホンカードを差し出してくれた上、後日友人宛に、マネージャー経由でご本人からお礼の電話をもらい、留学生活への激励の言葉をかけてくれたと聞いて、勝手に胸がいっぱいになった。どうしようそんなことが起きたら。

でもさ、会いたい人に会えるっていいよね。しかもえっちゃん、もう20年も前に実現しているなんて。そう言えば、GLAYのTERUが大好きだったりんちゃんも、ハワイで間近に会ってたよね、と共通の友人の話になった。いつもハートだらけの手紙を書いてて、二言目にはTERUさんTERUさんって言ってたりんちゃん。

「こんなに大好きなんだから、いつかは会えるはず」と言い続けて本当にそうなった彼女の言葉に、私は何故かとても説得力を感じて、きっと私もそのうちASKAさんに会えるんだろうな、って漠然と思ってたんだった。気付いたらあれからもう20年経つんだ。

 

「ねえねえ私、一体いつになったらASKAさんに会えると思う?」思わず言ってしまった。やっぱり想いが足りなかったかしら、手紙も書かないし、ここで待ってたら会えるかもと思ったことすらないし、ぼんやりし過ぎてたかなー。そうだよねぇ、会えたらいいよねぇと友人は笑ってるけど。今度はえっちゃんが私をASKAさんに会わせてくれる番だからねってお願いしておいた。


あの頃の私達、その日一日何をして過ごすか考えるだけで良かったよね、楽しかったよね。若かったよね私達。最後はやっぱりこんな話になって別れた。私達っていつも同じ昔の話をしてる、そういえば。

 


家に帰ると私は夫に、「ねえねえ。私、ASKAさんに会えるかどうか占って」と依頼した。

「は?」と言われた。

「だって時間は消えていくんだよ、ここから先は」
と返した。

 

夫の多趣味の一つにタロット占いがある。人生は一度きりだ、僕は自分の目で見たものしか信じない、と言う夫だけれど、占いはまた別らしい。占える男子も悪くない。

会ってどうしたいんだ、歌を聴いていればいいじゃないか、ぶつぶつ、と言いながらもカードを持って来てくれた。私は、ここは思い切って一枚のカードで占ってと依頼した。ワンオラクル。

 

カードを切る。どきどき。どうしよう、ものすごく、緊張する…。

 

万感の思いを込めてカッティングして、めくられた一枚のカードは。

 


「戦車」

 


……どういう意味?? 

どきどきしすぎて震えてしまいそう。

 


「戦いのカード。その過程に困難を伴うけれど、努力の末に最終的な勝利を勝ち取る。信念を貫くことで、達成できる。」

 

えーそうなの本当に。嬉しすぎる。

終わりが良ければあとはどうにでもなるわ、きっと。
なんて素敵な夜なの、ありがとう夫。
妄想いっぱい膨らませて眠る。いえ、妄想ではないかもしれない。

「こんなに大好きなんだから、いつかは会えるはず」

だよね。

 

 

 

 

 


※ここまでお読み頂いた方へ
最後までお読み下さりありがとうございます。
あきれてしまわれたら申し訳ありません。
一ファンのたわごとと思ってお許しください。

文中に記載のCHAGE&ASKA 出演のLOVE LOVE あいしてる(1999年8月21日放送)のトーク内容がこちらからお読み頂けます。よろしければお楽しみください。

http://www.fujitv.co.jp/LOVELOVE/profile/guest/chage_aska/chage_aska.html

 

そして、LOVE LOVE あいしてる 待望の復活だそうです。嬉しいな。

www.fujitv.co.jp

あの日とそれから 2

 

やり場のない気持ちを、慌ただしい引っ越しの準備が紛らわしてくれた。合間を縫って、日々友人達と会い別れを告げた。時々ASKAさんのことで私を心配してくれる人がいたけれど、なんだか何にも上手く言えなかった気がする。

夫に遅れて7月の終わり、静岡市での新たな生活がスタートした。

間も無くして、つわりがはじまった。

そのつわりは今回もとても重くて、私は一日中起き上がれない日々が続いた。

それでも裁判の行方が気になり、テレビやネットニュースを毎日追っていた。

衝撃的なことばかりが目に入ってくる。知りたくないという気持ちがある一方で、これらが世に放たれている以上、目を背けるわけにいかないという気もした。

そして知ることも辛いけれど、これらを世間に知られなくてはいけないASKAさんの心境を想像すると、もっと辛かった。

私は一日中、暗い部屋に突っ伏して過ごした。事件も、つわりも、新しい家も土地も、何もかもがいやになりそうだった。

ただ日々が過ぎていくのを、ひたすらにやり過ごしていた。

 

 

2015年4月。息子は、誰かが夢で教えてくれた通り、桜が満開の中生まれてきてくれた。

新しい生命の神秘に、心奪われる日々が始まった。

二人の音楽を、聴けない日々から、聴かない日々に変わっていった。不思議な位、聴きたいという欲求が起きなかった。

夫が時折、「本当に聴かなくなったね」と言った。
「そうだね」と私は返した。

 


それから、どの位経った時だろう。季節がもうすっかり変わっていたある時。
車で家族で遠出した時に、夫が何の前触れもなく、突然ASKAさんの曲をかけた。

「月が近付けば少しはましだろう」だった。

イントロが流れて、驚きととともに、涙が止まらなかった。知らないうちに心の奥底に溜まっていた感情が溢れ出していた。

私は、ASKAさんの音楽を欲していることに気付いた。頭で考えていることとは別のところで、聴きたがっていたようだった。

空白の日々を埋め合わせるように、それから毎日、ASKAさんの音楽で身体をいっぱいにしていった。


2016年の年が明けて間も無く、ASKAさんが700番という名の手記を発表したとニュースで知り、すぐに見た。冒頭の謝罪とASKAさんの言葉を泣きながら読んだ。やっとASKAさんの言葉を聞けるんだ。

でも、明け方までかかって読み終えた私は、茫然としていた。何が何だか分からなかった。恐怖さえ感じてしまった。盗聴は事実なのか、薬物の影響なのか、私にはとても、判断がつかなかった。

もしかしたら、ASKAさんはとても深刻な状態なのかもしれないと思った。もうASKAさんの姿を見られなくなることを、覚悟する必要があるのかもしれないという考えが頭をよぎった。それはとても辛いことだけれど、その時の私にはそれ位、そう思えてしまうものだった。

複雑な想いをまた抱えることになってしまった。この気持ちにどう折り合いをつけたら良いのか、考えても答えが出なかった。


それから半年経った7月、ASKAさんがまたブログを開設したと知り、とても驚いた。訪れてみると、そこには確かにASKAさんの言葉があった。

ASKAさんの生の言葉を聞けるという素直な喜びの反面、葛藤もあった。まだ色々と腑に落ちていない、わだかまりのようなものがあったから。裁判の主張の食い違いや、盗聴のこと、病気ではないとする主張。そういったもの。

でもブログ開始から数日後、ASKAさんの姿をテレビで見て、私の心は大きく揺れ動いた。2年振りに見る、ASKAさんの姿。ずっと大好きで、その音楽を愛して、姿を追い続けてきた人。何か、突き動かされるものがあった。

私もブログを書いてみることにした。自分の気持ちを、どうしても書き留めておかなくてはならない気持ちになっていた。ただその時の私には、現在起きていることについての想いを綴るには、あまりにも自分と出来事との距離がまだ、掴みきれなかった。だから過去の思い出を、少しずつ振り返っていくことにした。

 

日々更新されるASKAさんのブログをどきどきしながら読んだ。ASKAさんの言葉から、景色や色を感じ取ってみたり、時折想いをコメントという形で言葉にして行く中で、自分の中にあった、色々なわだかまりが消えていくのを感じていた。言葉には不思議な言霊がある。表現した通りに、自分がなっていく。


11月に入った頃、私はこの逮捕からの一連の出来事について少しずつ文章に書き出して、一通り完成した。

その時々の様々な感情や葛藤を思い出しながらもそれに向き合い言葉にすることで、それらが浄化していくのを感じた。書くことで癒されるものってあるんだなと思った。

でもしばらくして読み返したら、ふと気付いたことがあった。

私は、ASKAさんの事件でとても悲しい思いをしたけれど、ASKAさんにとってはどうだったのだろう?

ASKAさんは、どれだけの涙を流したのだろう。

どれだけの、孤独と苦しみを味わったのだろう。

どれだけ後悔して、心を引き裂かれて、傷付いたのだろう。

ASKAさんにも、同じだけの悲しみがあったのだと、私はそこで初めて思い至った。

過ちを責めることは簡単だけれど、私にはもし自分だったらと想像することさえ出来ない。

前を向いて歩くことは、どれほどの勇気が必要なんだろう。

こんなに苦境に立たされても、ASKAさんは全てを背負って立ち上がり、また歩き始めようとしている。

そんなASKAさんを心から応援したいという気持ちに変わりはないけれど、私はもしかしたら、大切なことを見落としていたのかもしれない。

それって何なんだろう。しばらく考えを巡らせていたら、ふいにその頃良く聴いていた、めぐり逢いのフレーズに心を掴まれた。


恋で泣かした人と 恋で泣かされた人
同じ罪を振り分けてもいいね いいね


同じ罪を、悲しみを、振り分けてもいいよね。そう思ったら、夜じゅう涙が止まらなかった。気付かなくって、ごめんねって思った。

一緒に生まれあって、幸せを分けあって、悲しみあえる私達。
そういう私達でいたいと思った。

ASKAさんのことで悲しんだのに、どうしていつも、ASKAさんの歌や言葉に救われるんだろう。ASKAさんも、そういうことってあるのかな。

 


この文章は、11月28日にアップするつもりでいたけれど、その日、ASKAさんの2度目の逮捕があって、長い間行き場を失ってしまった。その後に続いたたくさんの出来事と経験を経て、今やっと送り出せる時期を迎えられた気がする。

 改めて振り返ってみて、そこにはやっぱり、通らなくてはならない道があって、果たさなくてはならない約束があったのだと思う。ASKAさんにも、私達にも。

肉体を持って生まれて、痛みを感じることが必要だったから、その出来事は起きた。様々な困難に立ち向かいながら、返さなくてはならないものを、ひとつずつ返していく。次の場所へ行くために。

学びというのは、誰かに教えられるものではなくて、自らの体験を伴って体内に刻まれた時に、はじめて自分のものになるのだと思う。そこを今私達は、くぐり抜けている。

 

きっとみんな、最後に辿り着くところは同じ。愛に近付いていく。

また、ASKAさんの歌詞を借りちゃったよ。

たくさんの学びに、やっぱり私はただ感謝の気持ちしかなくて。

ASKAさん、どうもありがとう。

あの日とそれから 1

 

もうすぐ3歳になる娘が、みんなとブランコを取り合っては揺らしていた。

5月の春の陽気が気持ちの良い土曜日の朝だった。私達は、保育園の懇談会に参加して、終わるとみんなで近くの公園に向かった。思い思いに遊び回る娘と子供たちを、夫と微笑ましく眺めていた。

私達家族は一足早く皆に別れを告げ、近くのお店で昼食をとることにした。上池台の、のんびりした商店街。ちょっと早いけど、冷やし中華が食べたかったんだ。2014年5月17日のその日は、お昼前にはもう陽射しがとっても強くて、公園で太陽をいっぱい浴びた私達は、暑いくらいだった。

お店に入ると、お客さんは私達の他に家族連れが一組だけで、がらんとして静かだった。食事が運ばれて来て、私は視界の正面にあったテレビをなんとなく眺めながら、食べ始めた。

まったりと流れていた時間が、ニュース速報によって突然遮られた。

 

"CHAGE and ASKAASKA容疑者を覚せい剤取締法違反の疑いで逮捕" 

 

えーーーーーっ?
えーーーーーっ。

何度言ったか分からないくらい、一人連呼してしまった。

隣の家族がテレビ画面を見ながらヒソヒソ話している。

友人がこのニュースをすぐにFacebookに投稿したようで、それを読んだ別の友人が、私の名前をタグ付けてそこに書いたコメントの通知が来た。

「Romi、やっぱり本当だったんだ…」

そんなこと、私、知らないけど。

やっぱり本当、だったんだ。

 

前年の夏に記事が出た時、きっとその通りなのだろうと思っていた。とてもショックだったけれど、ASKAさんも一人の人間だったのだと思って受け入れようとしていた。

でもその後、ファンクラブの会報でのASKAさんのメッセージを読んで心が揺らいだ。違法なことは一切やっていないということ、ファンのメッセージに勇気づけられたということが書かれていた。

夫に見せたら、ひとしきり読んで、「僕はASKAさんを信じるよ」と言った。クロだろうと言い続けていた夫がそう言ったので、私は分からなくなった。何が本当なんだろう。

ただ、少なくともASKAさんがファンのメッセージに励まされたというその気持ちは、本物なのだろうと思えた。

私は、考えを深入りさせることをやめることにした。

 

4月になって、会報と共にASKAさんのデモCDが届いた。
Be Free。私にはこの曲は、ASKAさんが罪の告白をしていると思えてならなかった。

 

それからの逮捕。
やっぱりという一言では言い表せないような、落胆や悲しみそしてよく分からない混沌とした感情が身体中にめぐった。何もしたくなくて、何も食べたくなかった。

 



逮捕のニュースから3日後。

私は一つの命をなくした。

この間まで、確かに見えていたはずの小さな鼓動が、なくなっていた。

流産です、と告げられた。

どうして。やっと授かった命なのに。
どうして、こんな時になの。

決まっていたことなのかもしれない。避けられなかったことなのかもしれない。

でも、このタイミングで起きるにはあまりに重くて悲しすぎて、身体が受け止めきれなかった。


その数日後は夫の誕生日で、なんだか半ば義務のように、私達は二人で食事に出かけた。もう動いてくれなくなった、小さな身体も一緒に。

緑が丘の、お気に入りのレストラン。
涙ばかりが、こぼれた。


ほどなくして、私は病院の手術台の上にいた。小さな命とお別れの日。いち、に、さん…数字を数えるごとに、意識が遠のいていった。

術後、麻酔がまだ効いて身体がふわふわした気分の中、私は夢を見ていた。たくさんの小人のような人達が、横たわる私の世話をしてくれていた。そして桜の咲く頃に、子供がまた戻ってきてくれることを教えてくれた。
とても大きな救いだった。

それでも、空っぽのお腹はやっぱり悲しくて、ASKAさんも遠くにいってしまって、どこかに行ってしまいそうな自分の心を身体に繋ぎ止めておくのは思ったよりも大変だった。


だんだん身体が回復して日常を取り戻しかけていたら、6月に入ってすぐ、今度は祖母が亡くなった。
また、お別れだ。

そうして落ち着く間も無く、6月下旬には転勤が決まった。夫の会社人生で初めての転勤。

わずかな間に色んなことが起きすぎて、目まぐるしかった。
始まりの出来事が、とても重くのしかかっているようだった。

ASKAさんは今どんな風に過ごしているのだろう。毎日思いながら、東京での残りの日々を過ごした。

 


釈放はいつになるのか、毎日ニュースが気になっていた。

7月1日は娘の3歳の誕生日で、夫は、この日から一足先に静岡に住み始めた。ASKAさんはまだ、釈放されなかった。

待ち続けたその日は、7月3日の夕方にやってきた。私はテレビの画面にじっと見入ってその時を待っていた。

 

まさか、こんな姿のASKAさんを見ることになるなんて。

大好きなASKAさんが、こんな形で世間に注目されるなんて。

耐えがたい。
けれど見届けなくては。

 

湾岸署から出て、一礼するASKAさんを複雑な思いで見つめた。

アナウンサーが、ASKAさんが言葉を何も発しなかったことにとても驚いていた。それは真っ当な反応なんだろうと思った。でも私には、そんなASKAさんが至極想定の範囲内に思えた。

それ以上に、私がその時思ったのは、こんなことになってしまっても、ASKAさんはきちんとスーツを着て、ネクタイ姿で、髪の毛も整えられていて。その状況を作って下さった方達に、私は心底感謝した。その方達の想いに泣けて仕方なかった。



その後、ファンクラブは休止となった。
なんだか突然、置いていかれてひとり取り残されてしまったような気がした。

これから、どうしたらいいのだろう。
何を拠り所にしていけばいいのだろう。
ASKAさんの言葉は、どこで聞けるのだろう。
ASKAさんは、どこへ行ってしまうの。


混沌とした思いの日々で、考える度に思い起こす言葉があった。alive in liveでASKAさんが言っていたこと。

「50歳を前に控えて、自分が生まれてきた意味や人生の答えの輪郭が見えてきている。どこかで受け入れる気持ちと、こんなところで自分の人生決められてたまるかっていう気持ちがいったりきたりする」

そう言って"ここは途中だ"と歌ったASKAさんが思い描いていたその後は、こんなことじゃなかったはずなのに。どうしてこうなってしまったの。

どうして、どうして。

そんな思いが、ぐるぐる渦巻いていた。

 

二人の音楽を聴けない日々が、この後長く続いた。